第二部 三島由紀夫の死

第四章 『天人五衰』

『豊饒の海』でもっとも重要なのはいうまでもなく第四部の『天人五衰』でしょう。題名となっている馴染みのないこの言葉は小説の中で詳しく説明されているように死に瀕した天人に現れる予兆です。つまり、この小説で描かれるのは、『豊饒の海』四部作を通じて転生してきた選ばれた人間、天人の死です。それを描くためには、天人かもしれないとして登場する透は、本物でなければなりません。三島は、物語の最後に描かれる透の自殺、また自らの自殺を説明するものとして、あらかじめ登場人物の一人に自殺について語らせています。自己正当化の自殺だけは許せる、というものです。自分が天人であると証明するために企てられた透の自殺は、失敗します。それは図らずも透が天人ではなく人間であるということを証明してしまいました。ならば天人はどうしたのでしょうか。この小説では天人の死が描かれるはずではないでしょうか。天人の死が描かれるべきところで、透の自殺の失敗が描かれているのは、それこそが天人の死であるとしか考えられません。天人は死んで人間になってしまいました。天人として生まれた透は、人間として死んでゆくでしょう。『絹と明察』の岡野がそうしたように。いつでもどこでも誰でもがそうしているように。

天人である透を人間へと導くのは狂女、絹江です。彼女の名に「絹」が使われているのは、彼女が、『絹と明察』の駒沢と同類であることを示唆するためでしょう。『只ほど高いものはない』の「ひで」、『絹と明察』の「駒沢」、醜いと思うものを英雄的に描いた三島は、最後になって醜いものを醜いものとして描きます。駒沢が死に瀕した病の床で、病の力を借りて、ようやく手に入れた、自己に満足した人間としての完成を、絹江は、狂気によりやすやすと手に入れています。醜悪な内面にふさわしく、醜悪な容貌を持つ彼女は、しかし、本当に醜いのでしょうか、本当に狂っているのでしょうか。絹江の言動には狂気が感じられません。「彼女が醜いのではない。彼女の生き方が醜いのだ」 彼女は普通の人です。三島は狂気を描くつもりのないことを『荒野より』その他において明言しています。『只ほど高いものはない』『絹と明察』で読者の感動するあるべき人間の姿としての英雄を描きながらそれを醜悪だと感じていた三島は、醜悪なものを醜悪なままに描いた上、それを狂気と名づけました。

小説の中で透は生まれ変わった天人ではなく偽物だった、と書かれています。しかし、そのようなことがあっていいのでしょうか。それはまるで推理小説の結末で、犯人らしく思われた人物が実は犯人ではなく、すべてが振り出しに戻ってしまうようなものです。現実ではいくらもあることかもしれませんが、小説、なかでも三島の小説の世界ではあってはならないことです。もしも透が偽物だというならば、小説が現実になってしまったのならば、入れ替わりに現実が小説にならなければなりません。小説となった現実の世界で本当の天人の生まれ変わりが自己正当化の自殺を成功させなければなりません。そうでなければ小説は完成しないのです。では誰が透の代わりに天人だというのでしょうか。それは作者である三島由紀夫本人です。三島が最終回の原稿を届けた足で死地に向かったことはよく知られた話ですが、それは死ぬ前に仕事を片付けておこう、という責任感の表れなどではなく、現実の世界での三島の死が、実は小説の続きだからなのです。三島はその死によって自分が人間ではなく天人であると証明しました。いや、天人であるという証明など誰にもできようはずがありません。ただ、只の人間じゃないぞといいたかったのです。人間は遅かれ早かれ、程度の差こそあれ、自己に満足した存在になってしまいます。三島は、自分が、醜悪だと思い、狂人だという人間として死んでゆくことを拒否し、天人かもしれない人間として死んでいくことが、小説としてではなく現実に選択しうる道だということを示したのです。それが三島の自己正当化の自殺でした。そして現実は、三島の小説となってしまった現実は、書き手に先立たれた現実は、すべての動きを止め、三島にすでに描かれたことしか起こりえず、三島の死後の現実の世界で生きていくには、絹江の血を引く人間として三島が名づけた狂気に身をゆだね生きていくしかないものとして、さもなければ三島のように死んでしまうしかないものとして、残されたのです。

小説人間欲目次 第二部終章