第一部 人間欲

序章 鳥が教えてくれたこと

一、

冬の干潟で餌をあさる水鳥の群れを見たことがありますか。

寄せては返す波のまにまに、月の、目には見えない力が働いて海は退き、おもむろに、しかし、取り返しのつかぬ力強さで、泥の干潟が現れて、防波堤ののり面であんパンの上の白胡麻のようになって干潮を待っていたシギやチドリが、泥の中のカニやゴカイを求めて、おっとり刀で飛んできます。本当に飛んでくるのです。彼らには翼がありますから。

干潟の真ん中に、思い思いに陣取って、白い胸を反らせて、跳馬を跳び終えたボギンスカヤのように左右の足を少しずらして立ち止まり、餌を見つけるやいなや駆け寄って摘み上げるのはシロチドリ。駆け寄っては立ち止まるしぐさを見ていると、その中にきっと「だるまさんがころんだ」と叫んで不意に振り向く一羽の鬼がいるんだろうと思わずにはいられません。

潮が引いたか引かぬかの水際で、遠足の子供のように連れ立って、一足ごとに泥にくちばしを差し込み、くちばしで餌を探すのはハマシギです。絶え間なく揺れる波のレエスを、干潟の端に縫いとめようと、せわしなく動き回る数百台のミシン。人間だってハマシギの真似をして絶えず下を向いて歩いていたら、十円玉くらい拾うことがあるかもしれません。

シロチドリやハマシギよりもふたまわりは大きい、干潟の上にまき散らされた季節はずれの桜の花びら、白い鳥は何でしょう。くちばしと足の赤いユリカモメです。波のうえに遊びつつ魚を喰うユリカモメが、干潟に何の用ですか。

今、一羽のシロチドリがゴカイをつかまえました。ゴカイについた泥を洗い落とそうと干潟に残った水たまりでゆすいでおります。近くでそれを見たユリカモメが突進してきました。シロチドリはあわててゴカイをくわえて飛び上がります。ユリカモメにしつこく追い回されたシロチドリはゴカイを落としてしまいました。大事な餌といえども、逃げ回るときにはお荷物ですから。ユリカモメはさっさと舞い降りゴカイを拾って、ああ、うんまいなあ。

ユリカモメは弱いものの餌を横取りするためにそこにいるのです。

その時、一羽のハマシギの鋭い声を合図に、干潟中の鳥が一斉に舞い上がりました。一体何が起こったのでしょう。群れ飛ぶハマシギは、灰色の背面を見せ、ゆがんだ楕円にまとまったかと思うと、一羽乱れず反転し、真白な腹を見せ、低く横に流れて水面いっぱいに広がり、羽ばたく翼で水を打ち、立ち迷う水煙を残して入道雲のように盛り上がると、風にはためく幟になるや、天に駆け上がる竜になる。灰色に、純白に、めまぐるしく色を変えながら、人魂の形で飛びめぐります。一羽一羽のハマシギから発せられた脳波は、空に集合意識を形作り、一個の生き物のように動きます。それは、生きている花火です。生命の火花です。花火に重なる、鳴き叫び乱れ飛ぶユリカモメの桜吹雪。ハヤブサです。ハヤブサの襲来です。干潟を真二つに切り裂くように直進したハヤブサは、三次曲線で上昇し、見えないほどの高みから、泥にめり込むほどの勢いで、ハマシギの群れに落ちてきます。「やられた」千羽のハマシギがそう思いました。「よかった。俺は生きている。やられたのは隣りの奴だった」千羽のハマシギがそう思いました。しかしその時ハマシギは、九百九十九羽になっていたのです。九百九十九羽のシギが舞う。その陰で、一羽の命が散っていきます。

泥の上の流木に翼を落ち着けて、獲物の頭をちょん切ったハヤブサは羽をむしって臓物を引きずり出します。ハヤブサの動きに合わせて、白い羽毛が風に乗ります。命のかけらが空に散ります。もうハヤブサなんか怖かないぞと、ハマシギはミシンを踏み、シロチドリはだるまさんがころんで、鵜の目鷹の目鴎の目、なにげにたたずむユリカモメはさりげに彼らを見張っています。

干潟は水鳥の楽園だ。それは瞬時に天国になる。

寄せては返す波のまにまに、月の、目には見えない力が働いて海は広がり、おもむろに、しかし、取り返しのつかぬ力強さで、干潟は波にかき消され、海へと延びた突堤で、つかのま安らぐカモの群れを、チュウヒがながめにやって来る。野生に生きるものどもに、安楽な眠りなど与えてなるものか。生と死とは紙一重、一瞬の気の緩みが、冥土の旅への片道切符、あらがいがたいこの世の掟を、さあ、今こそ思い知れ。鋭く尖ったチュウヒの爪が、おまえの首を締め上げて、いかつくゆがんだチュウヒの嘴が、お前の胸を引き裂くぞ。

そんなことは百も承知、寸時も警戒怠るものか、波間に逃れりゃ手出しはできまい、まがまがしい爪の届かぬ水中深く、潜るわざをば身につけた、我らを食い物と思うなよ。広げた翼をV字に保ち、なめるように堤防沿いに飛ぶチュウヒの行く手で、後から後から海に飛び込むカモ又カモ。突端に腰を落ち着けたチュウヒの鼻先を、二度三度かすめて翻るはハヤブサか。はるかに体の大きいチュウヒに向かい果敢に攻撃を仕掛けるハヤブサの心中や如何に。右の目にはハヤブサ、左の目にはチュウヒ、波間に浮かんだカモの群れは、首を伸ばして彼らを見張る。ふたたびチュウヒは翼をひろげ、上流の葦原へと帰っていく。

最大の暴力はただ存在のみによって、他を脅かし弱者の攻撃を誘発する。強者の自覚あるものは静かにその場を離れるだろう。

野生に生きる鳥たちは、他のものをとって喰うことや、餌を横取りすることに、躊躇も迷いも罪悪感も感じておりません。

二、

五月の夜の窓を開けて、有明の月に耳をすませば、ほら、聞こえるでしょう。

ホト トギス、ホト トギギス。

明るい緑の中に白い花が光を放つ日本の山野の夏、ガマズミ、コブシ、ヤマボウシ、太古の昔よりこの地に根を下ろしていたかのように咲き誇るロビニア。その夏の訪れを告げるホトトギスが、南の国から渡ってきます。五月の夜の都会の空を、ネオンに染まって曇った空を、鳴きながら飛ぶホトトギス。万葉の昔から人々が待ち焦がれたその声が、人の姿も街の様子もすっかり変わった今でも、耳をすませば、ほら。

ホト トギス、ホト トギギス。

何を叫んでいるのでしょう。誰に叫んでいるのでしょう。明らかに、彼が叫んでいるのは自分の名前です。自分がオスのホトトギスであることを、世界に向かって告げているのです。その叫びは、ほかのオスのホトトギスにとっては縄張り宣言に、メスのホトトギスにとっては求愛の歌声に、人間にとっては初夏の風物詩に、その他の生き物にとっては騒音に聞こえるでしょう。ゲンジボタルは愚痴を言います。「やかましい奴だな。俺たちみたいに光の瞬きで愛を告げるという洗練された技を身につけていない奴らは、野蛮で、付き合えないよな」

九月の土手の桜並木は、ホトトギスたちの御毛虫処。

「帰りに毛虫屋寄って行こうぜ」

捕らえた毛虫を木の枝に二度三度叩きつけて、キチン質の殻の裂け目から滲み出るビタミン、ミネラル、アミノ酸、甘露にのどを潤して。そしてこの時ホトトギスは鳴きません。名乗らないのです。領収書の宛名は「上様」でいいそうです。

野鳥観察とはある面で名前当てゲームです。本から得た知識で、他人から聞いた話で、自らの経験で、やぶの中で一声鳴いた鳥の、こずえの葉陰につかのま姿を見せた鳥の、名前を当てて喜ぶのです。はたから見ればアホみたいであり、実際そのとおりなのですが、やってみれば結構楽しいです。名前にはそれだけの力があります。名前を知ることで見えてくる世界があるのです。ホトトギスだったならウグイスに育てられただろうし、カッコウだったならノビタキに育てられただろうし。

『聖書』の冒頭『創世記』における一週間で世界を創った神の話を信じますか。信じられない話ですが、あるいは名前をつけたというのなら、荒唐無稽とばかりは言えないのではないでしょうか。混沌とした世界に名前をつけることによって、人間は生きてきました。なんか知らん暗く不安な時間を「夜」だというから我慢ができます。「朝」だというから夜明けを信じて待つことができるのです。

秋の、名乗らないホトトギスは、同じ仲間のカッコウやツツドリと見分けがつきにくく、野鳥観察者をてこずらせます。大きさが違う、目の色が違う、腹の横縞の粗さが違う、ああだこうだといい始めて、人はマニアになってしまう。なぜ見分けがつかないのでしょう。なぜ見分けなければならないのでしょう。さえずりに明らかな特徴のある鳥は、近縁の種とよく似た姿をしていて、見分けられない場合がままあります。彼ら同士ではさえずりで区別するため、姿に特徴を持つ必要がないのです。人間に見分けてもらう必要など、彼らには全くありません。

ホトトギスがホトトギスでなければならないのは、繁殖相手を見つけるときだけです。毛虫を食べているとき、ホトトギスはホトトギスである必要がないのです。三度の食事に箸と自我が欠かせない人間、自我の混乱がしばしば拒食症や依存症などの摂食障害を引き起こす人間とのなんという違いでしょう。

三、

シジュウカラの鳥言葉は「失くして気づくもの」、ヤマガラは「先祖の思い」、ヒガラは「山上の景観」、そしてエナガの鳥言葉は「空から降る幸せ」。

年末の休みに時間を持て余し、居場所をなくし、ふらりと出た散歩の道すがら冬枯れの雑木林を歩けば、輝く青空を編み込んだケヤキの梢に銀の鈴を振る音がします。ヒガラやシジュウカラを引き連れてエナガの群れがやってくるのです落葉広葉樹林を生活の本拠地とする彼らの羽色は、木漏れ日に擬態した白と黒とを基調としていますが、それに加えて一刷毛ぶどう色で飾ったエナガは、「柄長」の名前の由来となった長い尾を持つ小さな鳥で、ニー三十羽の群れで行動しています。あまり人を怖れない鳥なので、静かにしていればかまわずやって来ます。段違い平行棒の演技をする少女に取り囲まれたような、ミニチュアの軍楽隊のパレードに出くわしたような、偶然の、空から降る幸せに包まれて、彼らの動きや声を思う存分楽しむことができます。その声に包まれていると、いつの日かきっと彼らの言葉が分かる日が来ると、そんな気がしてくるのです。

千九百九十九年十二月三十一日大晦日の夜、床について、近所の寺から響いてくる除夜の鐘を聞きながら、私はいつものように、三島由紀夫が死の直前に武田泰淳を相手に話したことについて考えていました。

「戦争反対と言えばいい人だ、絶対いい人に決っている」

そして私は思いついた。人間が持つ「自分をいい人だと思いたい」という欲望に名前をつけたらどうかしらと。

人間欲

暗い天井が虚空に向かって観音開き、満天の星空から目には見えない何かが大量に降り注ぎ一つの言葉が浮かび上がります。

人間欲

その時私は、厚い雲に裂け目ができ、混沌の大地に射し込んだ光が、地平の果てまでを明らかにするのを見ました。

人間欲

いつか見かけて忘れられない光景、妙に気にかかる新聞記事やほんの一節、繰り返し考えてしまう答えのない問題、そんなあれやこれやにジグソーパズルのピースのような形を与え、一枚の大きな絵に仕上げさせる言葉。

人間欲

今日まで生きてきた日々にめぐり会ったすべての物、事、人、素晴らしくても詰まらなくても、唯の一つの無駄も偶然もなく、今日このときにこの言葉と出会うために、巧妙に仕組まれていたのだと信じさせる言葉。

人間欲

進化論と経済学と心理学と宗教と、同じ人間を対象としているのだから一つにならなければならないはずなのにばらばらだったものを一つにする言葉

人間欲

言葉をもって綴られた物語によって世界を読み替えるという使命を負った文学がその使命達成のために開く扉の鍵となる言葉

人間欲

ちょっとした思い付きを、世紀の大発見のように思わせて、天高く舞い上がらせる言葉。ああ、これが本当の人間欲、人間欲ではありませんか。

小説人間欲目次 第一部第一章 人間欲