第一部 人間欲

第一章 人間欲

一、強い

人間欲には今まで名前がありませんでした。取るに足らないものであるため名前を要しなかったのではなく、あまりにも日常的であるためわざわざ名前をつけようという気を起こさせなかったのです。それはまるで空気のようです。空気に対する欲望のようです。空気欲、あるいは呼吸欲という言葉もありません。名前がないからといって呼吸欲が取るに足りないものであるとは言えません。大いに強いものです。「小便は一町、飯は一里ほど我慢できる」といいます。性欲なんか一光年我慢してる人もいます。しかし、呼吸は二十五メートル我慢できません。

十五メートルしか泳げない子供というものがおるものです。学年に一人くらい、学業優秀、スポーツ万能、眉目秀麗、児童会長、そのうえなおかつ泳げない子供がいたりします。どうしてかなあ。そのようなお子さんをご存知の方は、今すぐその子に告げてください。

「水の中では息ができない、それは本当だね。だけど、本当に本当かな。息は吸ったり吐いたりするもの、そして実は水の中でできないのは半分の、息を吸うことだけなんだ。もう半分の、息を吐くこと、これは水の中でもいくらでもできるよ。だから、水の中では、息を吐く、息を吐く、息を吐く、それだけ考えて泳いでごらん。二十五メートルだって、五十メートルだって、すぐに泳げるようになるさ。水の中で十分息を吐いておけば、ちょっと顔を上げただけで息が吸えるよ。水の中では息が吸えないからと、息を止めていたら、息継ぎに顔を上げたときにも、息を吐くのに精一杯で息を吸う暇がないんだ。息は吐かなきゃ吸えないんだよ。ウンコをしないと飯が食えない、憎まなければ愛せない、使わなければ儲からないし、壊さなければ創れない。それは本当かどうか分からないが、吐かなきゃ吸えない、これは本当なんだ。手足の動かし方なんかは、あとでゆっくり練習すればいいさ。吸った息と止めている息は、同じ息でももう違う息。肺の中でガス交換が行われてるからな。息なんか止めてないで、吐いてしまえばいいんだよ」

普段意識していない呼吸欲も、満たされないとなると大変です。「溺れる者はわらをもつかむ」という言葉があるように、人間の理性などは簡単に吹き飛ばされてしまいます。人間欲は呼吸に似ていて、順調にいっている間は意識にも上りませんが、いったんそれが満たされないとなると、何をおいてもまず満たさなければならないものとして立ちはだかり、わらでもあぶくでもつかみます。悪魔との契約など朝飯前、何をしでかしても不思議ではありません。そのうえ、溺れていることが一目瞭然なのに対し、人間欲の不満足ははた目にはまるで分かりません。

二、決った対象がない

人間欲は意識さえされていないことが多いものですが、意識して満たすわけにはいかないものでもあります。自分で自分をいい人だと思うために、何をどうすればいいのでしょうか。分かりません。人間欲には、呼吸欲に対する空気、食欲に対する食い物といった決った対象がありません。そのため人間は人間欲を満たすためにさまざまなことを行ってきました。呼吸のように絶えず満たさなければならないものですから、人間の行うありとあらゆる行動の裏側には、人間欲がキュプラのように貼り付いています。目的を達成したときにしばしば味わう幻滅は、その行動がその目的を達成するために行われたのではなく、人間欲を満たすために行われたのだということの証明です。人間は、自分が本当は何を求めているのかを、本当には知らないのです。

決った対象のない人間欲はどんなものにも姿を変えます。名誉欲、自尊心、自己顕示欲、物欲、所有欲その他人間にあって人間以外の生き物にないさまざまな欲望はすべて人間欲ですが、それらを人間欲としてくくることにより、その本質を明らかにし、それらを克服する道を示すことができると思います。

三、けっして満たされない

また、人間欲は決まった対象を持たないため、本当に満たされることはけっしてありません。そこそこ折り合いを付けていくだけです。そのうえ、原因と結果に明確な対応がありません。ひとえに主観の問題です。金持ちの家に生まれ、何不自由のない暮らしをし、眉目秀麗成績優秀で、次から次へと異性に惚れられ友人に恵まれ、仕事にかなりの成功をしても満足しない場合もあれば、三本生えている眉毛の二本が老化によって抜け、残る一本に栄養分が集中した結果、ながく伸びたことを長寿の証だと大喜びする場合もあります。結局人間欲は慢性的に不満足です。そのため人間欲を満たすための行動は必ずいき過ぎます。人間の欲望に限りがないのは、その欲望の裏側に人間欲が貼り付いているからであり、その限りにおいてです。食欲に人間欲が貼り付けば、体を壊して死ぬまで喰ってしまう。それでもまだ喰い足りません。欲しているのは食い物ではなく、人間欲の満足なのです。人間欲の前には、自己保存本能など物の数でもありません。満たされない人間欲をかかえて生きていたって、自己は保存されていないのです。

四、他人を必要とする

子供は保護者を必要とし、繁殖には異性が必要ですが、人間はそれ以外にも絶えず他者を必要とします。人間欲が慢性的に不満足な状態にあるため、他者による確認が必要なのです。確認してくれる他者は多ければ多いほど望ましく、どんなに多くても十分ではありません。人間には仲間、上役、先輩、部下、ため、子分、奴隷、主人、女王様、下男が必要であり、ペットとしてでも他人に必要とされたがります。それはすばらしい結末を迎えることもありますし、身の毛もよだつ恐ろしい結末を招きよせることもあります。人間欲の満足はその多くを、あてにしようのない他人の心にゆだねているのです。それは絶え間のない不安ですが、そこから逃れるすべはありません。他人がいない状態、つまり孤独はもっと悪いのです。幼くして親のないのを孤といい、年老いて子のないのを独という、あわせて孤独。長引く孤独は、脳内物質に働きかけ、血糖値に働きかけ、コレステロールに働きかけその当事者を死に至らしめるでしょう。なぜならば孤独な人間は人間欲を満足させることができないのですから。船で旅行をした時に、低い雲が垂れ込めた灰色の空の下、島影一つ見えない灰色の海に、たった一羽で浮かぶ小さな海鳥を見たことがあります。それは寂しさを通り越して、異様な、あってはならない光景のように思えました。もちろん自然の光景に意味はなく、それは鏡のように人間の心を映しているだけなのですが。ありふれた光景を異様と見るほどに人間の心は孤独を怖れているのです。

人間欲の支配する社会では、嫌われることは致命的なことであり、その他のすべては好き嫌いの感情の前にひれ伏します。ポケベルが鳴らなくて、メールの返事が来なくて、ブログを読んでいる人誰かいるのかなあ、嫌われたのかな。これが人生の最重要事です。

五、人間に特有である

食欲、性欲その他の欲望は人間以外の動物にもありますが、人間欲は人間だけにあるものです。お猿にお猿欲はありません。お猿がお猿欲を持った時に、お猿は人間になったのです。ほかの動物がしない、そしてほかの動物には理解されないだろう人間に特有の行動、すなわち科学、芸術、スポーツ、文明、勉強、恋愛、親孝行、株式会社、観光、宗教、礼拝、懺悔、宇宙旅行、国家、料理その他すべては人間欲の仕業です。人間の偉大さも卑小さも、美しさもおぞましさも、すべて人間欲にかかっています。お猿は人間に似ているという、あるいは、人間はお猿に似ているという、しかし、本当に似てるかな。お猿に似た顔の人間は時々いますし、赤ん坊を抱くことにおいてお猿は人間に似ていますが、どんなに似ていようと似ていまいと、人間欲の有無において両者は決定的に隔たっており、その違いの大きさは相似点を吹き飛ばして余りあるものです。

六、考えない

人間は考える動物ですが、人間欲は意識しないで満たされているため考えることとは相容れません。人間の行動には考えてみればおかしなものが幾つもありますが、それらはすべて人間欲のせいです。映画『男は辛いよ』の主人公寅さんの台詞で、大学の入学試験の題材になって話題になったものがありました。その台詞の内容は、考えないのはよいことだ、というものでした。これは人間欲の特徴をよく表わしています。人間にとって何より大切な人間欲を満たすためには、考えていては、考えた時点ですでに失敗です。人間は誰しも人間欲について不満を抱えているため、人間欲を満たす機構がうまく機能している人、つまり、考えない人にあこがれます。『男は辛いよ』の人気の秘密の一つはここにあったのです。それだけの映画でないことはもちろんですが。人間は誰もが、考えていないように見える人が好きです。長嶋監督は現在日本で最も人気のある人物の一人ですが、典型的に考えていないように見える人です、本当のところはどうであれ。流行歌の歌詞には意味不明のものが結構ありますが、人気には影響しないようです。歌詞について考える人はあまりいないのでしょう。人間欲が優先的な社会では、派閥と階級が必然的に生じますが、考えない人は階級の上位につきます。考える人間は敬遠されます。何か考えているようで、何を考えているか分からない人間はもってのほかです。

ただ、考えることに縁のない人間であっても、夜になって、一人になって、眠りに落ちる前には考えることがあるかもしれません。中崎タツヤがそう漫画に描いていますから。

七、仮想に左右される

以上、人間欲の特徴をいろいろ並べましたが、人間欲にはさらに奇妙な特徴があります。それは仮想現実により満たすことができることです。絵に描いた餅で腹はふくれませんが、人間欲は破裂するまでふくれあがります。逆もまた成り立ちます。仮想現実により腹は減りませんが、人間欲は不満になります。仮想現実はもともと人間欲を満たすために創られたものなのです。うそ、フィクション、芝居、お世辞、陰口、根も葉もないうわさ、これらにより人間が喜び、悲しみ、憤りその他心を動かすのは、これらが人間欲に働きかけるからです。ビリー・ワイルダーはジャック・レモンにうそをつかせるし、勧進帳で弁慶はうそをつくし、オセロはうそに苦しむし。

人間欲が人間以外の動物にないこと、仮想現実により左右されること、この二点から人間欲自体がもともと仮想なのではないかと考えられます。

八、いい子

親を始めとする保護者は子供に対して陰に陽にいい子でいろと要求します。保護されなければ生きていけない子供にとって、それは従わざるを得ない要求です。いい人でいたいという人間欲も、いい子でいようという意思の変化したものだと考えることが、あるいは妥当かもしれません。しかし、多くの場合において親を始めとする保護者の都合のいい子であるいい子と、いい人でいたいという人間欲のいい人とは、重なる部分はあるにせよ違うものです。それより何より子供は成長するものだから、大人になりたくないと願っても日々に大きくなるものだから、体が大きくなるのだったら心だって。体と無関係に心があるとは考えられないから。いい子といい人とは別のものとして話を進めます。人間欲のために忘れられてしまう純真や初心を、忘れないでいることは貴重ですが、大人の体に宿る子供の心は時に不自然でグロテスクであり、心の成長が人間欲により阻まれているのだと思います。

小説人間欲目次 第一部第二章 言葉による人間欲