第一部 人間欲

第二章 言葉による人間欲

絶えず満たさなければならない人間欲を満たすために手軽な方法は言葉によるものです。言葉により組み立てられた思考によることもできるのですが、他者を必要とする人間欲の性質上、実際に相手のあるおしゃべりとして行われることが普通です。人間は用もないのにしゃべります。しょうもないことをしゃべります。TV番組表を見てください。おしゃべりの番組がいくつもあり、再放送までされています。枯野に広がる野火のように普及した携帯電話、便利なものですが、それがなかった時、果たして今日の携帯電話の普及を予測しうるほどに不便であったでしょうか。携帯電話は主に人間欲のために使われているのだと思われます。作り話やら本当のことやら話題は多岐にわたりますが、内容は一つです。

「私はいい人、私はいい人、私はいい人、だって私はいい人だから」

「俺はえらい、俺はえらい、俺はえらい、なんとなればすべからく、俺は俺様だからなるべし」

議論を深めるためにではなく、相手の共感が唯一の目的なので、反対意見は不愉快なだけです。反対意見がされる場合は、相手の人間欲の主張であり、両者共に理屈がないので「あの人とは気が合わない」で終わりです。だからといってまともな話し合いがないのではありません。ただ、人間が人間欲から逃れられない以上、人間のあらゆる行動に人間欲が侵入し、もっぱら人間欲のためのおしゃべりもまたあるのです。いくつかの場合をみてみましょう。

一、一般的に認められた正義を口にする

太平洋戦争敗戦からソヴィエト連邦崩壊までの間の日本では、戦争反対、がその役割を果たしていました。その間に世界のどこかで起こる戦争は必ず、核兵器を保有する米ソ二大超大国の代理戦争でしたから、考えるまでもなく悪でした。「考えるまでもなく」というところが大切です。当時、戦争反対を叫んでいた人の中には、戦争に反対していた人と人間欲を満たしていた人とがいたわけです。結果として同じじゃないかと思うかもしれませんが、後者は太平洋戦争中には戦争に反対する人に対して、やはり人間欲を満たすために、「非国民」と叫んでいたのです。ソヴィエト連邦崩壊後は、湾岸戦争により明らかになったように、戦争の善悪は考えなければ答えの出ない問題になり、人間欲の役には立たなくなりました。考えることは人間欲の苦手なことですから。「時代が変わったんだよ。あのころはそういう時代だったんだ」戦争はいつだって悪です。

ほかに、科学的社会主義、というものもありました。一時期の大学で幅を利かせていたマルクス主義者が、現在では、日向の春の雪のように姿を消してしまいました。彼らはなぜマルクス主義者だったのか。それは、資本主義社会が内部矛盾によって崩壊し、社会主義社会に移行するという科学的社会主義が、世界に通用する善だと思われていたからです。彼らはなぜあっさりそれを捨てたのか。科学的社会主義が世界に通用する善ではなくなったからで、彼らはもともとそれに関心がなかったのです。関心を持って考えれば、科学的社会主義がちゃらんぽらんであることは、いくら当時でも分かったはずです。しかし、人間欲を満たすことは考えることなどよりもはるかに大切なのです。「時代が変わったんだよ。あのころはそういう時代だったんだ」ただし、科学的社会主義が間違っていたとしても、資本主義が正しいわけではありません。

かわって桧舞台に躍り出たのは「自然保護」です。湾岸戦争の時に報道された、油にまみれて飛べなくなった鵜です。戦争反対、科学的社会主義という両翼を失い地に這いずっていた人々は一斉にこれに飛びつきました。当分こいつが幅を利かすことでしょう。一つ問題なのは、戦場が日本以外の世界のどこかであって、社会主義が未来のことだったのに対し、自然保護は今ここで一人ひとりの日常の生活の一つ一つにいちいち口を出すことです。その点で折り合いを付ければ、怖いものなしです。折り合いを付ける方法の一つは自然保護を特定の生物の保護に限定することであり、重宝がられています。「頭が良い鯨を食べるな」これは言い換えると「人間でも頭の悪い奴は殺したって罪は軽い」ということでナチスのような考え方ですが、不謹慎な発言とはされていません。人間より鯨のほうが頭が良いとは誰も本気では考えていないのですから、自分の頭の良さを自慢しつつ、自然保護を口にできるという、ことに白人には手放しがたい主張です。自然保護は現在及びこれからの人間にとって決定的に重要な事項ですが、人間欲はそれに力と混乱を与えるでしょう。

物質が空間なしに存在できないように、空間が時間なしに存在できないように、時間が物質なしに存在できないように、正義は悪なしに存在できず、人間欲が結び付いた正義は、理性も恥も外聞もなく、弱者に悪を押し付けます。弱者は欠くべからざるものであり、絶えぬように生産されます。

二、一般的に認められた悪口を言う

悪口、陰口これらは名前からして悪そうで、悪いということは誰にも分かっていることだと思いますが、いっかな無くなりません。もちろんこれらにも意味のあるものもあるのですが、多くはただ人間欲のために言われています。人間欲のためには自分に関係のないものほど都合がいいです。

天気予報が当たらない。いまどきの若いモンは。昔は良かった。日本の英語教育は間違っている。政治が悪い。TV番組が低俗だ。その他。

いちいちもっともですが、だからどうするというのでしょう。どうするわけでもありません。悪口を言ったその時に、自分が偉くなったような気がする、それだけです。気がする、だけです。言う前と言った後とを比べて自分が変わった訳ではないので、明らかに錯覚なのですが、人間欲が満たされたのです。人間欲は錯覚によってでも満たされるのです。

「天気予報が当たらない」

実際の天気予報は結構当たっています。天気予報は当たった場合には何も言われませんが、外れると文句を言われます。文句を言う人は、天気予報が外れても特に実害のない人です。実害のある人は文句を言ってもしょうがないので、天気予報を参考にしつつ自分で空を眺めたり、天気予報士を雇ったり努力をします。現代の都市生活では天気予報が外れても困ることは普通ありません。洗濯物には乾燥機があり、布団には布団乾燥機があり、どこへ行くにも自家用車を使えば傘も必要ありません。そういう生活をしている人が文句を言うのです。雨が降らなくて深刻な状況に陥る農業者は、雨が降らないのは天気予報のせいではないと骨身にしみて分かっているので、天気予報に文句は言わないでしょう。

「いまどきの若いモンは」

年寄りにとってこれほど便利で手軽に人間欲を満足できる方法はないかもしれません。特に現代は生活様式が急速に変化しているので、文句の種がつきません。ルーズソックス、、ガングロ、ヤマンバ、アツゾコ、シャツの裾をズボンから出して下がったズボンの裾を踏む、これらはすべて変ですが、変なのは昔も同じです。お歯黒、ちょんまげ、裃、十二単、みんな変です。常に裾を踏む袴もありました。公共のマナーがなってないと言う。それは年寄りも似たり寄ったりです。若いとか、年取っているとかとは別の問題です。そういう若者を育てたのは年寄りなんだから、自分の教育の失敗を吹聴して何が楽しいのか、と思いますが、そういう理屈は無意味です。人間欲の前に、すべての理屈は無力です。若いモンを教育しようという気持ちは毛頭ありません。そのような人間に他人の教育ができるとは思えませんし、若いモンがまともになったら、人間欲を満足させる機会が減ってしまう、もっと変な奴が出てこないかなあ、というのが本音です。

「政治が悪い」

民主主義社会の政治家は、一、選挙民の機嫌をとる、二、選挙費用を稼ぐ、三、政治をする、この三つのことを同時にやらなければなりません。政治がおろそかになるのは当たり前です。他の二つをおろそかにすれば、ただの人(無職)になってしまいますから。それでも他の制度よりはましだから、民主主義が選択されているのです。民主主義では、代議員の「代」という文字が明らかに示しているように、政治をするのはあくまでも国民一人ひとりであり、政治家は代役でしかありません。学校、警察も同じです。それを「お任せ」にしてしまってはうまくいくはずはありません。「お任せ」にしてしまって、自分たちで選んだ政治家の悪口を言いながら、「誰がなったって一緒」と、したり顔で言う。貧乏人にとってはその通りですが、どのみち政治は難しい仕事ですよ。優秀な人間が最善を尽くしたとしても、うまくいく保障の一つもない、難しい仕事ですよ。

現在の日本の政治の最重要課題は、アメリカの軍事費をいかに肩代わりするかということですが、こんな馬鹿な話、うまくいくはずはありませんし、うまくいったら困ります。商品の販売が必要条件である資本主義社会で、商品の購入は労働者の賃金でするしかないという制約にもかかわらず、労働者の意思がどうであれ必ず売れる究極の消費物資、兵器。アメリカ様から賜った平和憲法により、資本主義の王道、兵器の生産購入を封じられた日本で、苦肉の策として増殖した公共事業建設業を、軍需産業ととっ替えようとしたって。政治の安定と平和を願っている国民の意思に反して、障害となる平和憲法を排除するためには二大保守政党の連立しかないと、累進税率の緩和や消費税の導入により所得格差が広がってきたとはいえ、ついこの間まで一億総中流といわれていた国民に対して政権交代可能な野党を押し付けたって。アメリカ様に殺された英霊を祀った靖国神社に参拝して掻き立てた愛国心により増強した軍備がただアメリカ様のためだけに使われるのなら。うまくいくはずはありません。

構造改革、構造改革。耳にたこですが、構造とはなんですか、構造改革とはなんですか。構造とは収入の体系です。構造改革とはそれを平準化することです。それは、人類平等という思想の産物ではなく、現在の社会を支配する資本の要請です。収入が多ければ多いほど収入の内、支出にまわす割合は低下します。つまり、需要が不足します。その不足は政府の赤字、及び貿易の黒字によって、とりあえず補われるのですが、ながく続けられる対症療法ではありません。収入の平準化か、さもなくば没落か。道は二つに一つです。構造改革の名のもとに行われる格差の増大の助長は、改革ではなく「反動」です。

「TV番組が低俗だ」

TV番組が低俗なのは、人々がそれを望んでいるからであり、それはまず悪口を言われるために低俗である必要があります。TV番組が高尚になったら高尚な人間は自分の高尚さを実感することが困難になってしまいます。低俗な人は番組を見て人間欲を満足させ、高尚な人は番組を非難して人間欲を満足させる、そして皆うれしいのです。

「言葉遣いが乱れている」

ネタにつまった売文業者がこぞって取り上げるし、誰にでもそこそこのことが言えるので人気の分野です。例えば、ら抜き言葉。「れる、られる」という助動詞には可能、受身、尊敬、自発の四つの意味があるため、使用頻度の最も高い可能の形を変え言葉を分かりやすくしようというもので、望ましい変化であると言語的には答えの出ている問題ですが、私はむずかしいことは分からんけど生理的に不愉快なの、と、更年期障害の症状の一つだったのか、と気づかせられる言葉でチョン。もっとも、生理的というくだりには、言葉が単なる道具ではなく人間の内部に深く根を下ろしているものであることを示唆する部分があるかもしれません。

いらんことを言ってお友達を無くしたってつまらんだけだから、面と向かって間違いを指摘することはあまりないと思いますが、指摘した場合に、指摘された方の答えは、わかりゃいいじゃん、です。いいかげんに話しても分かり合える間柄でしか話をしてこず、外国の文化を取り入れはしても自らの言葉で文化を発信することの少なかった日本語の甘えを象徴する言葉です。人間欲で間違いを指摘すれば、人間欲でわかりゃいいじゃんと答えが返ってくるものです。しかし、人間は結局分かり合えないものであり、それでも分かり合いたいと、個人と個人とを決定的に隔てる肉と骨と脂と毛皮の絶壁の谷間に向かって、けっして向こう側には届かない言葉を投げれば、思い切り腕を伸ばしてそれを掴んでくれる誰かがきっと現れると、そういう風に言葉を使って間違いを指摘したならば、答えは変わってくるでしょう。

小説人間欲目次 第一部第三章 仮想による人間欲