第一部 人間欲

第三章 仮想現実による人間欲

マルクスの『資本論』の主要な論点の一つである価値形態論は、本来幻想である価値が貨幣となって現実に流通するのは何故かを論じたものです。難しくてよく分からないものですが、幻想が共有化されることによると考えていいと思います。ほとんどすべての人間が日常的に使用している貨幣が、ほとんどの人間に理解されない難しい理論により成立しているのは不自然です。簡単に考えておきましょう。人間の幻想は荒唐無稽なように見えてもたかは知れていて現実の解釈に過ぎず、同じ現実の上に立つ人間の幻想は互いに似通っており、容易に共有化されるでしょう。共有化された幻想は、貨幣が現実に流通するように、仮想現実として共有化された幻想を持つ人間にとっての現実となります。仮想現実が現実と異なる点は、変化することだけです。「高校くらい出ておかないとまともな職に就けないよ」といいます。それはまさに現実ですが、雇う側と雇われる側がその幻想を共有している限りにおいてであって、いつまでもそうであるとは限りません。一方、喰わなきゃ死んでしまうという人間の現実は、変化しません。そして人間が幻想を共有化するのは、人間欲のためです。人間以外の生物が仮想現実を持っているとは思えませんから。言葉による人間欲に続いて、仮想現実による人間欲についてみてみましょう。

一、仲間を作る

一年生になったら百人の友達がなぜ必要か。有名人が憧れの対象となるのはなぜか。友人と共に写したプリクラの写真をたくさん集めることが楽しいのはなぜか。冠婚葬祭に集まる人の数は何で決るのか。

人間は能率その他のために共同して事を行い、それにより一人ではとても成し遂げられない偉大な業績を上げています。急速な文明の進展も共同作業なしにはありえなかったでしょう。一方、人間欲の特徴の一つとしてあげた、絶えず他者を必要とする性質も人と人とを結び付け集団を作らせます。人間の集団はもともと人間欲を満たすために作られ、二次的に事を行うのに便利だと発見されたのだと思います。そのためありとあらゆる人間の集団には、人間欲を満たすための機能が組み込まれています。職場はもちろん仕事をするための場ですが、それだけならばたくさんの階級がはたして必要でしょうか。互いに互いの人間欲のために、忙しくしたりさせたりしています。しかし、職場には利潤の追求その他の目的があり、それが人間欲の暴走に歯止めをかけていますが、それらの目的のない、例えば政治家を始めとする公務員の群れ、小、中学校の学級、趣味の会、公園で子供を遊ばせるために集まった母親たちなどでは人間欲の嵐が吹き荒れています。派閥と階級が猛威を振い、絵に描いたような弱肉強食、適者生存の世界が展開されます。弱肉強食、適者生存は共に自然界のあり方ではなく、人間欲により生まれた資本主義の方法です。

仲間を作るということは、仲間以外のものを作ることであり、小さな趣味の会から民族、国家に至るまで、外に敵を内に派閥と階級を作ることなしには成立しません。現在は平等社会ですが、それは人間の進化により勝ち取られたものではなく、非人間的な資本の要請によるものです。利潤の追求を目的とする資本はその障害となるものは階級でも国家でも取っ払います。人間の歴史において平等社会が例外的なものであることをみればたやすく理解されるでしょうが、人間欲から逃れられないすべての人間にとって、階級社会は平等社会よりも望ましく、たてまえとして平等となった現在においては、ただ人間欲により階級が形作られています。人間は平等よりも階級が好きなのです。そこでは良くも悪くも、人間欲が満たしやすいからです。人間欲は仮想により満たすことができるため、態度のでかい人を見ることにより、その態度のでかさで自分が苦しめられている時でさえ、態度のでかい人を見ることのできない平等社会よりも、人間欲を満たす機会に恵まれているのです。ただ、その階級社会になじまない者にとっては、かつての目に見えた階級社会にも増して息苦しく、意識化されていない人間欲に対して反抗する者は、自分自身あるいは他人に対する暴力に訴えざるを得ないところまで追い詰められるでしょう。

二、いじめ

いじめは、自らの人間欲を満足させるために他人の人間欲を否定するもので、人間欲の満たし方の中でもたちの悪いものです。野鳥の雛は、早く生まれた体の大きなものが、遅く生まれた体の小さなものをいじめ殺すことがありますが、それには雛の数が減ればもらえる餌が増えるという現実的な意味があるのに対し、人間のいじめには、現実的な意味はありません。誰かが不登校になれば給食のプリンが余計に食えるわけではないのです。現実に金を脅し取られているような場合は、いじめではなく犯罪ですので、警察に相談してください。いじめについて考える場合、犯罪を区別することは、大事だと思います。

泣ける小説や泣けるTVドラマが星の数ほどあることから明らかなように、悲しみには娯楽としての側面がありますが、人間欲を否定されることは娯楽になりえません。辛いだけです。いじめが悪いことはいじめっ子にも十分分かっているでしょうが、いじめがやめられないのはいじめっ子の人間欲が溺れかかっているからです。いじめっ子の多くはいじめられっ子だったと思われます。いじめられることにより奪われた人間欲をいじめることにより取り戻そうというのです。いじめっ子の支えとなるのはいじめられっ子にいじめられる原因があるという詭弁に過ぎない理屈であり、それを容認する社会のあり方です。今いじめられている子がいじめられる原因を取り去れば次の子がいじめられるでしょう。次から次へと、そして誰もいなくなるまでいじめは無くならないでしょう。いじめによっていじめっ子の人間欲が満足することはないからです。いじめられっ子はいじめっ子を含めたその他大勢を人間欲の荒波から守る防波堤の役割を担わされているのです。人間欲を満たすために行われるいじめは必ず仲間を必要とし、複数の人間で一人をいじめる形をとります。いじめとして広く行われる仲間外れは、仲間を必要とする人間欲をいじめられっ子から奪うために必要な手続きです。ということは、決して誰をも一人にしなければ、いじめは防げるのです。人間は人間欲により自分で自分を悪い人だと思うことはできないため、すべてのいじめは正義の名のもとに行われます。正義は人間にとってすばらしいものです。しかし、正義が、四十億年地球上で生き延びてきた人間以外の生物に見られないものであることを考えれば、手放しで賞賛すべきものとは思われません。近いうちに、人間が地球上で生きていくことにとって、それは厄介なお荷物になるのではないでしょうか。

いじめが大掛かりになったものが差別であり、差別の代表的なものとして人種差別がありますが、差別には職業などの現実的な問題も絡むので更に厄介になります。人間欲の特徴として理屈がないので理性で解決できません。差別が人間欲に根ざしている以上、差別の歴史は人間の歴史と共に古く、人種や民族は差別の原因ではなく結果です。白いカラス、黒いスズメなどが自然の中でも見られますが、これらは差別されないためグループになることはありません。

三、スポーツ

人間欲に関係なくスポーツは楽しいものです。大体人間の体は動くようにできているのですから、技術の進歩と分業の発展により体を使わなくなった分は、わざわざスポーツをしたほうがいいでしょう。しかし、勝ち負けのあるものやプロの選手、オリンピックには人間欲が欠かせません。勝ってうれしい人間欲、負けて口惜しい人間欲、体に悪い厳しい練習に耐える人間欲。また、観戦する場合の多くは仮想による人間欲です。オリンピックの華、マラソン。落ち着いて考えてみれば、マラソンは夥しい浪費以外のなにものでもありません。しかし、我々はマラソンを見て感動します。我々の何が感動するのか。人間欲です。自動車の発明されている現代において、四十キロメートル以上を走り、しかも順位を競うという、とんでもないことをやりすぎた有森氏が、自分で自分を褒めたい、と言ったのが何よりの証拠です。

プロスポーツにおいては、仮想現実によって満たすことができるという、奇妙な、際立った人間欲の特徴が遺憾なく発揮されます。ひいきのプロ野球チームが勝つとなぜうれしいのか、負けるとなぜ不愉快なのか、合理的には説明できません。高校野球では、他人を炎天下で戦わせておいて、それを冷房のきいた室内でTVで観戦しながら、地元のチームが勝つと自分が戦って勝ったような気になるという、控えめに言って虫がいい、あからさまに言えば傲慢が服を着ているようなことが、罪の意識もなしに行われます。炎天下で戦う高校球児にとっても、人間欲を満たすために虫のいい観戦者が欠かせない存在であるということは、人間欲の人間欲による人間欲のための砂山のようです。

四、まとめ

歩く広告塔のようにブランド物を身につけた人々、他に対する敵対心により強固となる愛国心、民族のアイデンティティティ、信仰を共有しない人々に対する差別なしには成り立たない信仰。これらのものも中身はほとんど人間欲です。このようにみてくると、人間欲とは他人に対する優越感に帰着するようです。その優越感の確認のため自分を持ち上げる、あるいは他人を貶めるのです。現実にそうすることはたいへんであり、あるいは不可能なことですが、言葉により仮想現実により手軽に行うことができます。その優越感に根拠はあるのでしょうか。ありえません。人間の優越を決める尺度がないからです。それは人間欲により根拠なしに確立され、態度がでかけりゃ怖いものなしです。人間欲の支配する世界では、態度のでかさが、言い換えれば人間欲の強さがすべてです。行動圏の拡大と文明の急速な進展により価値観を異にする人々との日常的な接触が不可避となった現在において、あらゆる価値観は相対化され、絶対的なものの不在を否応なしに認めざるを得なくなった人間は、その存在に気づいてさえいなかった人間欲に足元をすくわれます。価値の多様化の名の下に、人間欲による一極支配が着々と進んでいるのです。

人間の、動物としての命の維持に必要な衣食等の確保にめどがつけば、人間の関心は、人間としての命の維持に欠かせない人間欲の満足に専ら向かいます。衣食足りて礼節を知ることができるのは、大多数の人々が衣食足りない状態においては、衣食足りることがすなわち人間欲の満足だからです。大多数の人々が衣食足りる状態においては、衣食足りて知ることができるのは人間欲の不満足です。人間欲の満足は他者との比較の中にしか見出されていません。新聞の三面記事をにぎわせる奇怪な事件の奇怪さは、それが人々になじみがあり人々に了解されている衣食を得るために引き起こされたものではなく、人々が漠然と感じながらもまだ意識化していない人間欲を得るために引き起こされたことにより生じているのです。この傾向はますます増大するでしょう。人間欲の不満足は恐ろしい事態を招きかねないものです。そのためその満足はぜひとも必要なものであり社会的にも承認されていることなのですが、それが必然的に弱者を生み出し弱者にしわ寄せされるものであることを思えば、このままでいい訳ではないでしょう。しわ寄せを受けている代表的なものとしては低開発諸国の人々、及び自然環境があります。凶悪犯罪の増加、地域的な戦争はこのしわ寄せに対する抵抗だと考えられ、それは全体を滅ぼしかねないものです。過剰な生産、消費、廃棄が自然環境に与える影響も看過できません。

人間のあらゆる行動には人間欲を満たすために行われているという側面があるのですが、そのあらゆる行動には人間欲を満たす目的のほかに本人が意識している別の目的があります。専ら人間欲のためのもの、ついでに人間欲を満たしてくれるもの、どちらとも判然としないもの、人により行動により場合により、どちらの目的に重点が置かれているかは様々ですが、本人が意識している目的よりも人間欲を大切にするといやなことになります。だからといって、人間欲がなければたいしたことはできません。吸う息吐く息の一つ一つが人間欲によって力を与えられ、一挙手一投足が人間欲によってむしばまれています。人間欲に重点をおいているのか、もう一つの自分でも意識している目的に重点を置いているのか、人間欲を指摘してみれば分かります。怒るのは人間欲に捕らわれた人、そうでない人は照れ笑いします。

小説人間欲目次 第一部第四章 現実による人間欲