第一部 人間欲

第四章 現実による人間欲

人間の歴史は戦争の歴史であり、虐殺は後を絶ちません。そしていまや人間は人間を絶滅させるのに十分な核兵器を持っています。何度も絶滅の機会があったでしょうに、そんな人間が五百万年もの間絶滅せずにやってこられたのはなぜでしょう。答えは一つ、人間が本当はいい奴だから、これしかありません。

いろんな顔の赤ん坊がいますが、醜い赤ん坊は一人もいません。このことは人間がもともとはいい奴だということを雄弁に語っています。醜さは後天的に作られるのです。いい奴である人間はしょっちゅういいことをします。いいことをすると人間欲が満たされます。しかし、それだけでは人間欲は満足できません。それで満足できるのならば、そもそも人間欲は生まれなかったでしょう。そして人間欲を満たすためにいいことをすれば、醜くなってしまいます。いいことをして人間欲を満足させることと、人間欲を満たすためにいいことをすることとは、同じようでも全く違うことですが、人間欲が満たされたから、いいことをしたんだと、いつの間にか勘違いして現実を見失い足が地に着かなくなるのです。醜さとは、場違い、身の程をわきまえない、そぐわない、そういった状態の視覚的な表現です。

もともといい奴である人間が人間欲のエネルギーをつまらないことばかりに使うはずはありません。人間欲は現実に対する人間の行動にも、いや、おそらくはそこに最も注がれているでしょう。人間欲が結果として他人に対する優越感に帰着するならば、「自分をいい人だと思いたい」という欲望を「他人に対する根拠のない優越感に根拠を与えたい」という欲望と言い換えてもいいかもしれません。優越感には何らかの尺度が必要ですが、たとえその尺度に普遍性がなくとも、自分なりに何らかの尺度を設けて、そこにおいて実際に他より抜きん出ようと努力するのです。決った対象を持たない人間欲はどんな尺度とも結び付き、真実の追究を尺度とすれば科学者になるでしょうし、美の追求を尺度とすれば芸術家になるでしょう。その尺度の価値は仮想ですが、行動は現実です。

科学は文明の進展の基礎であり、現実に有用ですが、その出発点は現実的とは思えません。宇宙の始まりや終わりを知ってどうしようというのでしょう。円周率を果てしなく計算して何になるのでしょう。天才とは、皆が疑問に思うことに答えを与える人ではなく、誰も疑問に思わないことを疑問に思う人だといいます。不思議とか奇跡とかはただ単に珍しいものでしかありません。不思議と思えばすべてが不思議であり、奇跡に奇跡が連なっているのですが、見慣れた奇跡は当然のことでしかなく、誰もがその前を通り過ぎていきます。そして、人間欲は人間のどのような欲望とも結び付くため、科学においても他の場面と同様に、真実の追究と真実の追究による人間欲の満足との、人間にとっての本質的な争いがみられます。多くの場合にとりあえず勝つのは人間欲でしょう。真実の追究は、人間欲の、歪んだ、あるいは限定された表現でしかないので、本来の人間欲にかなうはずがないのです。そしてそういった真実の追究が人間の文明を進歩発展させてきました。真実の追究に力を注ぐものはその分人間欲を大切にしないので、人間欲を大切にする一般の人間に支持されません。英雄は死んでからもてはやされます。

人間欲はほとんどの場合において性欲と結び付いています。性は、人間の重大な関心事である死と関連する事項であり、個人の主観的な感覚の中にしか存在しない幸福を人生の一大目的と考える人間にとって大切なことですから、それが人間欲と結び付くことに何の不思議があるでしょうか。皆さん、股に手を当てて考えてみてください。人間は幼形成熟により身体的な成長期間が長くなって性的な成熟期間と重なっています。そのため性的に成長しすぎていると考えられます。多くの鳥類は巣立ってまもなく身体的な成長を終えます。性的な成熟は小さな鳥では翌年、大きな鳥では数年後になります。つまり成長期と成熟期は完全にずれています。いわゆる冬鳥が春になっても北の繁殖地に向かわずに越冬地でのんきに遊んでいることがよくあります。子供は北緯七十度から北へは来ちゃ駄目、とか何とか言われているのでしょう。人間においては成長期と成熟期が重なることにより性が必要以上に大きな関心事になっているとはいえ、性自体は生物一般にあるものであり、人間欲を取り去った性が人間にとって他の生物と異なった特別のものであるとは思われません。

いわゆる文学の多くはポルノです。あからさまなものもあれば、女性向けの舶来のブランドのバッグやスカーフで飾った恋愛小説もあり、むっつり助平向けの舶来のブランドの思想や主義で飾った純文学もあります。ポルノじゃなきゃ誰がそんなもの読むかってんだ。その割には文学って偉そうにしてるよな。送り手のせいばかりじゃないんでしょうが。中身はギャグとヴァイオレンスとセックスで、容器としての物語は自分探しか魂の救済。何十年と持ちこたえてきた丈夫な容器だから中身はかなりハードでもザッツオーライ、文学的必然性があればな。賞味期限は三年間で、それを過ぎると自分を見失った魂がふたたび地獄にうようよ。混迷の現代社会に生きていて自分を見失いもせず不安に怯えてもいないようじゃインテリとは言えないな。知る人ぞ知る的固有名詞の多用で囲い込んだ読者の刈り入れだ、救済だ、新刊だぞ。ベストセラー間違いなしで、ノーベル賞まであと一歩だい。フロイトだかユングだか精神分析学だか何だか知らないが、性をご大層な人間の解放だか現代思想の本流だかにこじつけてくれた奴のおかげで、単なるポルノでも偉そうにしてりゃ純文学さ。文句あるか、ええっ。たいていの文学ってこんなところじゃないでしょうか、たぶん。フロイトは性が異様に抑圧されていた社会に生きた人です。その点を考慮しないと勘違いするでしょう。

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