第一部 人間欲

第五章 南無阿弥陀仏

一、ブロッコリ

「牛肉を食わせてやるぞ」

父が、包みをさげて帰ってきて、母に、ねぎや椎茸その他の用意をさせて、

「いっぺんに煮たほうがうまいんだ」

大きな鍋を借りてきて、

「失敗しては元も子もないから俺の馴染みの料理屋に料理させる」

いっさいがっさい持って出て、

帰ってきません。

母と、姉たちと、私は、すっかりご飯の支度を終えて、待っておりますと、勝手口に人のきた気配がします。

「お父さんなら声を出すはずよ。誰かしら」

母が様子を見に行くと、酔いつぶれた父が寝ていて、かたわらに、ざるにいっぱいのミョウガと、一株のブロッコリがあったそうです。

私たちは、薄切りにしたミョウガに鰹節と醤油をかけてご飯を頂きました。ブロッコリは、その時目覚めていた家族の誰もその名を知らなかったのですが、ブロッコリは、植木鉢にいけておきました。

「サボテンの仲間じゃないかしら。サンゴ色の花が咲くのよ、きっと」

鮮やかな緑色を見ていると、そんな気がしてくるのです。

その夜、ブロッコリ星人にグリーン光線を浴びせられ、体中に花が咲き菊人形のようになる夢を見て、恐ろしくて、泣いて、目を覚ましました。

「これは、塩でゆでて、食べやすい大きさに切って、油二、酢一の割合でよく混ぜたものをかけて食べるのだ。うまいぞ」

二、南無阿弥陀仏

人間欲を満たすことは人間にとって何より大切なことです。そして、幸いにも、決った対象を持たない人間欲は何によってでも満たされうるのです。パチンコであっという間に八万円負けたことででも。友達より先に芸能人の離婚について知ったことででも。しかし、どうしても人間欲を満たすことができない状況に追い込まれることがあります。たとえば、戦争で。

「人を殺しました。そういう命令でした。命令に従っただけです。組み合わせた手を額の上に掲げて何かしゃべり続けていました。知らない言葉です。何を言っていたのか分かりません。うつむいた首筋の後れ毛に白髪が混じっていて、白かったんだろうシャツのえりが垢で汚れていて、許しがたいほど汚らしかったです。銃で頭を打ち抜きました。彼岸花の花のように血が飛び散りました。まわりで仲間も同じようにしていました。さっさと仕事を終わらせて休みたかったです。いいこととも悪いこととも思いませんでした。『諸君等の行為が世界に平和をもたらした』と言われました。その通りだと思います。だけど、思い出すんです。出会った時に私を見た、おにを見る目で私を見た、あの目を。

満たされない人間欲をかかえて、人間は生きていけません。無理に満たそうとすれば、恐ろしいことになるでしょう。人間欲の不満に付けこんで、国家が始めた戦争に巻き込まれた人間は、国家が戦争を終えた後にも戦争を終わらせることができない。戦争で人を殺した自分を正当化しようとすれば、人を殺し続けなければならない。戦争よりももっと身近にそういう事態が起こりうる。たとえば、介護で。

風呂上りにビールを飲んでTVのバラエティ番組を見て笑いながら、「尾崎豆って本当に面白いわ」、何か忘れているような気がして。いやだ、お母さんにえさやるの忘れてた。もう三日もやってないわ。えさだなんて。お母さんはペットじゃないのに。ペットにしてはかわいくないもの。そういえばいないじゃない。お母さんの顔見てないわ。捜索願いだしたっけ。あんなもの出したってしょうがないんだけど。また警察に行かなきゃ。警察。だけど、お母さん死んだんじゃなかったかしら。だって、たしか、お葬式やったし。骨も拾ったし。それから警察が来て。私が殺したんだった。

警察に行こうと通りに出ると、行く手の街灯が一つ一つ消えて真っ暗闇。驚いて振り返ると今来た道も真っ暗闇で、目が見えなくなったかのような暗闇の中、前後左右が分からなくなった途端、上下の区別さえできなくなって、地面が抜けたかのような落下の感覚に全身が包まれたかと思うと、ふと。目を覚ましました。留置場の中でした。私が殺したんだった。年末の休みが三日しかないのにいきなり雨で。とりあえず干すのは明日でもいいから洗濯して。シーツを洗濯して寝巻きを洗濯してシーツを洗濯して。畳も干すといいんだけどとにかく雨だから掃除機をかけて拭き掃除して。雨がやんだと思ったら西風が強くなって。何だかんだでようやく落ち着いたら待ってましたとばかりにお母さんが粗相して。おしっこ臭い部屋でお正月を迎えるのかと思ったら、もう。「いい加減にしてよ。明日はお正月なのよ。分かってるの」何にも分かってないわ。だってそういう病気だもの。「介護される方が何倍も辛いんだで」そんなことを言う人がいるけれど本気かしら。体と同じように心も衰えてすっかり極楽。辛い辛いと思いながら何年も生きられるものかしら。せいぜいが三年。石の上にも三年。されるほうはするほうに尊敬されなくちゃ。何か方法があるんじゃないの、感謝とか、許しとか。ただでできることがあるんじゃない。つまらない人間に仕える自分がさらにつまらない人間に思えて。される人間に腹が立っておとしめればさらにくだらなくなって。きりもむようなデフレスパイラル。「すっかり取り替えるから。邪魔だから外に出てて」ビールを飲んだら泣けてきて、何にもやりたくなくなって。妹でも来ればいいのに。そりゃあ「都合のいいときだけ来て、いい顔しないで」って怒っちゃったけど。来るななんて言ってないのに。あれから来なくなったところを見ると図星だったんだわ。お母さんのことなんかあの子にはどうでもよかったのよ。いい子にでもなったつもりか。私にだってどうでもいいけど。だからといって殺すわけにもいかないじゃない。でも殺しちゃった。西風に吹かれて、お母さん冷たくなっていた。

「全国から嘆願書が届いていますよ」弁護士がそう言った。「何かの足しになるかもしれません。気が向いたら読んでみてください」宗教の本を置いていった。いやみかしら。歎異抄。

三、『歎異抄』

人間欲の不満足にたいていの宗教は無力です。あるいは積極的に危険です。愛と平和を説く宗教がしばしば争いを引き起こすのはなぜでしょう。それは宗教が人間欲を野放しにしている、いや、助長していさえするからです。宗教は人間欲を満足させるための仕組みであり、表通りには出られないような醜い欲望にさえ、大手を振って闊歩する口実を与えてしまいます。しかし、『歎異抄』を開いてみましょう。これが宗教でしょうか。

仏教の一派である浄土真宗の開祖である親鸞の言葉を直弟子であった唯円が書き留めて伝えたという『歎異抄』。浄土真宗が親鸞の教えとは違う方向へ進んでいってしまうことに危機感を覚えた唯円が、ちがう、ちがう、俺が親鸞から受けた教えはこんなものじゃなかったと書き残した『歎異抄』は、唯円の人間欲の産物です。皆が間違っていて、自分だけが真実を知っているという思いは、人間欲の大好物です。そして親鸞の教えは、つまるところ人間欲の否定でした。人間欲を否定する教えが人間欲により後世に伝えられたという、ぞっとするようなパラドックス。それはあるいは僥倖でしょうか。新聞の運勢欄にこんな言葉がありました。「他力を唱えつつ自力を貫いている悲しさに目覚めて吉」

上人さまが亡くなられてから一体どれくらいの時間が過ぎたのでしょうか。私には今もあの声が、言葉が、お姿がいつでも甦りますのに、皆はもうすっかり忘れてしまったようです。忘れてしまったのならまだ良いものを、尊い教えを勝手に振り回して、他力本願の名の下に、他人の力を当てにして現世の幸福を夢見る者、悪人成仏をいいことに、南無阿弥陀仏を唱えながら悪事を働く者、自分は悪人だと謙遜しながら、その実、悪人であるという自覚を持っていることに得意になってはしゃぐ者、目を覆うばかりの状況でございます。他力本願とは阿弥陀様のお力により、人間では望むべくもない、苦しむ人々を救う力を手に入れること、それ以外の何ものでありませんものを。ああ、しかし、そんなことよりも、私が何より慄くことは、あんなにお側にいながら、その頃には、私自身が上人様のお言葉をまるで分かっていなかった、そのことに日々気付かせられることでございます。

上人様が、如来の御誓願は私一人のためのものだったのだなあ、とつぶやかれた時、私はその言葉を記憶すべきものとして心に留めながらも、まるで分かっていなかったのでございます。上人様は私に対して言われたのでした、お前は悪人ではなく善人だ、と。悪人が南無阿弥陀仏を唱えたならば、その死の後、仏として極楽に生まれ変わらせてやろう、という如来の御請願、その御誓願が自分一人のものだということは、悪人はこの世に自分たった一人だということでございます。上人様の死の後に悪人となった私は、今ようやく分かりました、なぜあの時私がわからなかったかが。悪人に何より必要なものは、永久凍土の孤独です。共感は容易に人を善人に変えてしまう。上人様と私とが分かり合うためには、生と死とに隔てられなければならなかったのでございます。

そうして孤独な悪人となった私は、何かを信じることがもうできません。無邪気に仏の存在を信じている人を見るにつけ、無邪気に仏の不在を信じている人を見るにつけ、信じることの浅ましさ、疑うことのおぞましさ、それがそれだけでどんなに人を傷付けるかを、気付きもしない愚かさに身の毛のよだつ思いです。そうして私自身がその愚かさで上人様を傷付けていたのかと思うと、まさにこの身は張り裂けんばかり。すべては前世の因縁で、この世のすべては色即是空。悟りは迷いにほかならず、信じることとは疑うこと。地獄は極楽、極楽、地獄。善人はすべて悪人で、悪人すべてが善人ならば、教えを広めることなど、もうどうしてできましょうか。上人様のお言葉を書き留めたこの文が、極北の、時空を隔てる山脈を越える翼となって、誰かの元に届きますように。祈るばかりでございます。

   何もかも許しまするが 善人を固く禁ずる 南無阿弥陀仏

四、龍の頭

「お前は顔立ちがいいから、きっと映えるぞ」

父は、私に化粧をさせ、着物を着せて、おもちゃの刀を振り回させました。仕事の都合でうちに置いてあったクレーン車を龍のようにこさえて、その頭に私をまたがらせ八ミリで撮影するからその練習だというのです。母や姉たちには生意気な口を利くくせに、父に対してはろくにものも言えない子供であった私は、おそらくはうかない顔をしてその時も黙っていたのですが、内心はまんざらでもなかったのです。(龍と戦う少年剣士の話なら何かで読んだような気がするけれど、龍にまたがって誰と戦うのかしら)父は、私の気持ちなどにはとんじゃくせず、ダンボールで龍の頭をこさえたり、古い鯉のぼりで竜の胴をこさえたりしていました。しかし、撮影は行われませんでした。「ひぼでくくりつけておくから平気だ」と「危ないからやめて」という母の言葉に耳を貸す父ではなかったので、ほかに何か不都合があったのか、おそらくは、父自身が飽いてしまったのでしょう。

小説人間欲目次 第一部第六章 人間欲とは何か