第一部 人間欲

第六章 人間欲とは何か

さて人間欲とは一体なんなのでしょうか。

現実には親から子へと受け継がれていくでしょう。親は当然のこととして子に対して強圧的にふるまいます。自分は親で相手は子だと、夢にも疑うことなく信じているのです。子にとっては驚くべきことでしょうが、それは本当です。子はままごと遊びでかりそめの逆転を試みますが、結局は親の真似をするようになるだけです。しかし、子は一から十まで親の真似をするわけではなく、親に人間欲があり、子が真似をしてそれを身につけるのには何らかの事情があるに違いありません。考えることと相容れない人間欲について考えることは、夢から覚めた夢を見ているようなもの、雲の間から降りてくるエスカレーターを昇るようなもの、入り口も出口もない暗い迷路を手探りで歩くようなもの、向かい合わせた鏡に映る自分の影に呼びかけるようなものです。暗いと思えば突然目が見えなくなったかのように暗く、明るいと思えば真夏の真昼の太陽のよう。どちらも嘘ではなく本当とも言えず、わずかの間でも太陽を見つめた瞳には、太陽以外のすべてのものが、にわかに光を失って見えるでしょう。確かなものの何もない人間欲について考えるために、人間の複雑で雑多な行動から人間欲のかかわる行動を消去してみましょう。

消去して簡略化すれば、人間の行動は、自然環境の中から何かを取ってきて何かを捨てていくだけのことです。コンクリートとガラスとプラスチックで造られた都会のビルの中で、内装材から蒸散する化学物質をかき混ぜるエアコンの風に当たっていようが、うっそうと茂る南洋のジャングルのはずれの、珊瑚礁を渡ってきた風の吹き抜ける高床式住居で昼寝していようが、自然環境の中に住んでいるということについては、まったく変わりがありません。呼吸欲の対象である酸素を始め、いわゆる人工的環境のすべては、自然環境から取ってきたもので作られているのです。人間にとっての基本的な関係は自然環境との関係であり、人間関係は自然環境と関係を結ぶための手段に過ぎません。分業の進展と、必然的に人間関係を必要とする人間欲のために、自然環境の中に暮らしているのだということを忘れてしまうほどに人間関係が増大していようとも。人間関係を喰って生きていけるわけはないのですから。それならば、人間にとって基本的に重要である人間欲も、自然環境との関係の中から生まれたものに違いありません。人間について考えるときに、陥りやすい過ちで、けっして真実にたどり着かない方法は、人間だけについて考えることです。真実は関係の中にあるのです。絶対は人間の空想の中にしかないのですから。人間についての真実は、人間を自然環境の中において自然環境とのかかわりにおいて捉えなければ見つからないでしょう。

喰うために着るために住むために、人間は自然環境の中から様々なものを取ってきますが、もっとも重要なものは食い物でしょう。「人間とは何か」この古くて新しく永遠に謎かもしれない問いに対して答える一つの方法は、人間が何からできているかを考えることです。明らかに人間は、人間が喰ったものからできています。人間とは、豚肉とたまねぎとジャガイモと醤油大さじ二はいとの絶妙な組み合わせです。そして食い物はすべて生き物です。人間を含めた生物の命とは、他の生物の死からできているのです。動物の肉はもちろん動物の命であり、「お肉」というから食欲の対象ですが、動物の死体を切り刻んだ一部分です。さかなはそのままの形で食卓にのせてもグロテスクじゃない洗練された流線形で、いかにも喰われるために泳いでいるような奴らですが、「うおの死骸」といったら箸出しにくいです。サギやウはさかなを丸呑みにしますが、水の中を泳ぐために発達した流線形が、同時に飲み込みやすい形だとは皮肉です。米も小麦も種子であり、翌年には芽を出し葉を広げ花を咲かせ実を結ぶ力を持った植物の命です。種子とは、動物に例えれば眠っている赤ん坊です。喰うために自分以外の生き物の命を奪うこと、それ自体は人間を含めたすべての動物が日常的に行っていることで、特に問題のあることではありません。しかし、そこに人間に特有の困難が生じたのです。その困難とは何か。それを明らかにするために、進化について、人間はどういう動物なのかについて、考えてみましょう。

「進化」という言葉は何らかの尺度を前提としていますが、その尺度とは環境の制約からの自由です。波のまにまに漂っていた蛋白質のかたまりが、意志を持って泳ぎだし、すべてを溶かし込む水を体内に閉じ込めて、大気の中に躍り出たとき、爬虫類の誕生です。それから恐竜。恐竜に至って獲得したものは、外気温からの自由です。この世にはすべての活動が停止した絶対零度から、絶え間なく連鎖的に核融合反応の起こる恒星の内部まで、実に幅広い温度の段階が存在します。その幅の中で、恒温動物の体内では、一ー二度しか温度の変化が生じません。外気温に左右されず体温を一定に保つことにより活発な活動が可能になったのですが、それは特に脳にとって重要です。体温が一度上がっただけで、脳が普段どおりに働かないことは誰しも経験していることです。そして、体温を一定に保つことは、現存する生物では鳥類と哺乳類にしか可能でないことから容易に分かるように容易なことではありません。そのためこれらの動物でも生まれたばかりの個体ではそれが不完全です。生理的機能が未熟なうえに、小さなものは冷めやすいのですから。温度を保存する体積が三乗の関数なのに対し、温度を発散する表面積は二乗の関数です。体積分の表面積は体積が小さくなるほど急速に大きくなる。湯桶に汲んだ浴槽のお湯はすぐに冷めてしまいますよ。よって、親が、必ずしも遺伝学上の親である必要はないのですが、親が子供を温めなければなりません。温かい体を持つ生き物は、体が冷たくなったら死んでしまうのです。

  旅人の 宿りせん野に 霜降らば わが子羽ぐくめ 天の鶴群

これは万葉集にある歌で、子が旅をすることになった時に、その母が歌ったものです。「はぐくむ」、大切に育てるという意味のこの言葉に、現在では「育」という字を当てますが、万葉の頃には「羽ぐくむ」と書いたようです。それは水鳥が翼で雛を包むこと。涙を流して卵を産む海亀も、産み終わったらそれっきり。一匹で海へ帰ります。孵った子亀は自分の力ではいずって海へ向かうのです。海で母亀に出会っても、それとは気づきません。一方、カルガモの雛は、孵ってすぐに歩くことも泳ぐことも餌をついばむこともできるのですが、母鳥のそばを離れません。寒くなったら、母鳥の翼の下に潜らなければならないのですから、背中に乗っかって背中の羽毛に埋もれなければならないのですから。

恐竜が恒温動物であったかどうかは明らかになっていませんが、親が子の世話をしていたことが化石により確かめられているので、恒温動物だったと思われます。子に乳を与える哺乳類はもちろん、親が子の世話をしますし、親が子の世話をしない鳥類というものは存在しません。外気温からの自由は、活発な生命活動と同時に、親に、子と一緒に暮らして子の面倒を見ることを義務付けたのです。鳥類及び哺乳類以外の動物、たとえば魚、蛙、昆虫などにも親が子の世話をするものがありますが、一般的に鳥類及び哺乳類以外の動物では親と子が一緒に暮らすことは必要条件ではありません。鮭やカマキリについて考えてください。卵を産み終えた鮭は死に、交尾を終えたカマキリの雄は雌に食われます。

そしてこの恒温性の獲得は予想もしなかった大きな変革をもたらしました。このとき、命の光に包まれたこの星にひときわ輝く愛の灯がともったのです。子供は親が大好きなんですから。どんな親であろうとも。理由がなく、理屈がなく、根拠がなく、絶対です。この愛ゆえに、子殺しは親殺しに比べて軽い罪になっています。生別、死別あるいは何らかの事情により、たとえ会うことはできなくても、親のない子はなく、子でなかった人間はなく、ただの一人の例外も許さずこの愛はすべての人間に平等です。報われることも報われないこともあるでしょうが。裏切られた場合には、世界の滅亡を、はかなく消えるかなわぬ願いを願うでしょう。これがいやだとか、誰がいやだとか、この社会がいやだとか、あの世界がいやだとか、そんなことではなく、原子核の回りをまわっているという電子の、そのまわり方に我慢がならないんだ。

さらに、親と子が一緒に暮らすことは、進化にも大きな影響を与えました。親と子が一緒に暮らさない場合、親が子に伝えられるものはDNAだけですが、親と子が一緒に暮らす場合には、親は子に、DNAを介さずに直接情報を伝えられるのです。進化の速度は一段と速まり、DNAの重要性は相対的に低下しました。基本的な体を形作る情報や機能はDNAによらなければなりませんが、行動様式についてはDNAに書き込まなくても伝えられるようになったのです。そのため、鳥類及び哺乳類には、いわゆる本能は、完全な形ではありえません。動物園で育った動物が子供を育てられないことは、よくあることです。子供を育てるということは本能により行われているのではないのです。それは一面では情報の伝え間違いが起こるという困った事態であり、一面では環境の変化に応じて行動を変えることができるという自由でもあります。人間の特徴の一つである直立二足歩行は、DNAによるものではないことが、お猿に育てられた赤ん坊が直立二足歩行できないことにより証明されています。赤ん坊は我と我が身をお猿さんの群に投じ、DNAがすべてではなく、親から子に直接伝えられる情報がどんなに重要かを明らかにしました。DNAでは、頭のはげ具合とか癌で死ぬ確率とかは伝えられますが、親が子に本当に伝えたい、基本的なものの見方考え方、人生に対する姿勢、何が大切で何を守らなければならないのか、何を憎んで何と戦うべきなのか、何がうれしくて何が悲しいのか、何のために生きているのか、などは伝えられません。DNAが大切なことは、もちろん当たり前ですが。

親から子には、考えられている以上にたくさんの情報が伝えられているのではないでしょうか。赤ん坊にはおそらくは脳波によって情報が伝えられているでしょう。並んで眠っている母子が同じ姿勢をしていることがあることを、多くの人が実際に目にし、または聞いて知っていると思いますが、この事実を合理的に説明するには、親の脳から親の手足に発せられた命令が、直接子の手足を動かす、あるいは、子の脳に働きかけて子の脳に手足への命令を出させていると考えなければなりません。「べーしてごらん。べー」「べー」母親の真似をする赤ん坊は、母親の顔を見ると同時に、母親の脳を見ている。そして知るでしょう、自分が母親と同じ顔になって母親に喜ばれるためには脳のどこでどんな命令を出せばいいかを。

恐竜が鳥に進化したと考えられていますが、恐竜と鳥との大きな違いは成長の停止です。やたら大きな恐竜がいたらしいところを見ると、恐竜は死ぬまで成長を続けたようです。海亀だって浦島太郎が乗れるくらいに大きくなりますよ。鳥は、ほとんどのものが巣立ってまもなくで成長を止めます。飛ぶために必要な揚力を生み出す翼の面積は二乗の関数ですが、それにより持ち上げられるべき体重は三乗の関数です。成長を続けたらじきに飛べなくなってしまいます。体温を保つために作り出された羽毛は、成長を止めることとあいまって、大空へと羽ばたく力を手に入れました。植物の世界で鳥に対応するものは草です。樹木が枯れるまで成長を続けるのに対し、草は一年未満の期間しか成長しません。鳥と草により獲得された成長を止めるという能力は、地球に季節が、生物の生育に適さない冬や乾季が生じたことに対する適応ですが、人間の文明の未来を考えるときに興味深い示唆を与えるでしょう。

そして最も進化した動物として人間が生まれました。それは環境の制約からの自由の増大を意味します。おかげで人間は地球上のあらゆる場所に生息し、個体数も膨大です。ただし、人間はろくな文化ももたず個体数も少なかったころ、すでに世界中に住んでいたようです。散らばってすまざるを得ない事情があったんでしょう。映画『マトリックス』では人間の敵役として登場するコンピューターが、「人間は地球にとって癌細胞だ。他の生物との調和を考えずに増殖を続け、ついには全体を滅ぼしてしまうだろう。だから人間を管理するものとしてコンピューターが必要だ」と主張し、コンピューターに必要な電力を確保するための電池として、人間を飼育管理していましたが、癌細胞のように増殖するというのは、環境の制約から自由になったことの結果であって、人間に特有の性質ではありません。どのような生き物もそうするでしょう。それにもかかわらず地球上では生物同士の均衡が保たれていましたが、生物同士の均衡は結果として成就されているものであって、神がいて計らっているわけではありません。現在、その生物同士の均衡が人間により脅かされていますが、それは人間が新参者だからであり、人間に固有の特徴ではなく、すべての生物が通ってきた道です。生物の進化の歴史は自然破壊の歴史でもありました。植物が登場したときに、植物の廃棄物である酸素が、酸素のないそれまでの世界で生きてきた生物たちに甚大な被害をもたらしたことはよく知られています。進化により新しく登場した生物が、それまでの生物により築かれた均衡を、乱すことなく存続していけると考えることは荒唐無稽です。娯楽映画の敵役のコンピューターならまだしも、自らも人間でありながら、人間は地球にとって癌細胞だ、と主張してはばからない輩がおるようですが、何が彼らにそうさせるのか、人間欲です。ちょっと考えれば分かることを考えないのは人間欲の特徴の一つです。この主張の要旨は、人間が人間以外の生物とは一線を画しているということであって、良くも悪くも人間の他の生物に対する優越感の表明でしかありません。その優越感の根拠はなんでしょうか。根拠はありません。人間欲は他の人間に対する根拠にない優越感に根拠を与えようとする欲望だと書きましたが、ここで、他の生物に対する根拠のない優越感が現れた事に留意してください。もしかしたら、他の生物に対する根拠のない優越感が、人間ばかりがいて他の生物の姿が見えない人間社会の中で、他の人間に対する根拠のない優越感にすりかえられたのではないでしょうか。人間欲は自然との関係から生まれたはずですから。

さて、人間の他の生物と異なる特徴は何でしょう。自然破壊とか癌細胞のような増殖とかは、人間の特徴ではなく生物一般の特徴です。すべての動物が日常的に行っている、生きるために他の生物の命を奪うということに、基本的な困難を与えた、人間の特徴は何でしょう。それは人間の頭の良さです。どれくらい良いかというと、自分が何をしているかを知ることができるくらい良いのです。自分の命を保つため、他の命を絶つこと。他の命が夢見たすべてを、虚無の谷底へと蹴り落とすこと。今ある世界が今あるようにあるために、失われなければならなかったあったかもしれない世界のとてつもない膨大さ。それに気づいてしまったら、罪の意識なしにそれを行うことが可能でしょうか。そしてもしかしたら、自分がいつかそんな目に会うかもしれないということ。それが分かってしまって、なおかつそれを行うことが誰に可能でしょうか。それでもそれをしなければ生きていけないのなら、自分で自分に嘘をついたとしても、誰もそれを責めないでください。罪の意識から逃れるために、喰うために他の命を奪うことを正当化するために、人間は自分で自分に嘘をつき、自分は他の命よりも優れていると思い込んだのです。その根拠のない優越感に根拠を与えようと、人間欲が生まれました。

ここにおいての日本の問題は、江戸時代にあまり肉を食わなかった、つまり、喰うために他の動物の命を奪うという罪を自分の身に引き受けてこなかった日本人が、豊かになった現在において、殺すという経験、記憶、文化なしに肉を食っていることにあると考えられます。そして、この、罪の意識なしに罪を犯すという心の状態は、スーパーマーケットで肉を買うことが世界中で当たり前となった現在では、日本から世界中に広がっているでしょう。自分が今朝何を食べたのかを棚に上げて、「カワイー」と「カワイソー」を連発していれば誰でもいい人です。

TVのCMは資本主義社会において欲望を形作るものであると同時に、世相をよく反映しているものです。九十九年に話題になったものに缶コーヒーのCMがありました。「日本人は駄目だよ。アメリカ人に対してはっきりものが言えないから」とうそぶく日本人の男性が突然アメリカ大統領の前に立たされ困惑するというものです。日本人による日本批判は日本の特にいわゆるインテリにとってありふれた人間欲の満たし方です。数本のやはり人間欲を題材にしたCMがシリーズとして放映されました。また、ほかに目立ったものは音を立ててものを食べるCMです。音を立ててものを食べることは今までの常識ではマナー違反です。食事時のマナーは食べるという行為をあからさまにしないということを基本にしており、食べるという行為の罪に対するうしろめたさと食べ物に対する感謝の表れですが、そのマナーがいいかげんになるということは罪を罪とも思わず感謝の念も失われたことを意味しています。しかし、罪が消えてなくなるはずはなく、それは無意識のうちに封印され、無意識のうちに人間欲に油を注いで、誰にとっても人間欲が鼻につくほどに人間欲を燃え上がらせてしまっているのです。缶コーヒーのCMが放映され話題になったのにはこのような背景があると思われます。

二千年になって食べることの罪の忘却と必然的にそれに伴う人間欲の増大とを端的に示すCMがさらに現われました。殺菌作用のある石鹸のCMで、食事の前の挨拶として「いただきます」ではなく「手を洗いましょう」というものです。「いただきます」という言葉には食べ物に対する感謝が表現されているのに対し、「手を洗いましょう」には自分のために自分にとって不都合なバイキンを排除する、という意味しかありません。食べ物に対する感謝、罪の意識は跡形もなく拭い去られています。そしてバイキンの排除。自分にとって不都合なものを自分にとって不都合だというだけで排除して恥じない態度は、石鹸に限らず除草剤、殺虫剤などのCMに遺憾なく発揮されています。農業にとって雑草や害虫は死活問題ですが、一般家庭にとってその排除がそんなに重要でしょうか。それは傲慢です。

これらのCMをほとんどの人は不快にも疑問にも思わないでしょう。日夜垂れ流され、常識と化した罪の意識の忘却は、少年によるものを含めた安易な殺人や自殺に、ゲームや漫画の暴力表現よりも影響を与えているのではないでしょうか。バイキン呼ばわりはいじめの基本的な方法です。対象化されていない無意識に逆らうことはできません。自分にとって不都合なものを自分にとって不都合だという理由だけで排除することを当然とすれば、失われる人間の命の一つ一つの背後にある膨大な数の命(それは連凧のように宇宙の始まりから続いている)を忘却してしまえば、殺人や自殺を思い留めさせることは誰にもできません。

小説人間欲目次 第一部第七章 人間欲の克服