第一部 人間欲

第七章 人間欲の克服

誰もが皆、その持ち物で身を滅ぼす。美人は美に迷い、策士は策に溺れる。わずか三寸の舌先で五尺の体を損なうよ。人間欲は人間を滅ぼすだろう。もしも、人間が滅びてもよいものならば、私は何も語らない。しかし、人間の体は、目は、耳は、手は、足は、前へ進むようにできているのだから。人間が生まれてから今日までに、一体どれくらいの数の人が死んだことだろう。そのすべての人のいまわの際の枕辺に立って、人間なんて滅びたほうがいいのだ、そう言えるのなら言うがいいさ。私には言えない。言えない。言えない。だから私は前へ進もう。人間にとって何より大切な人間欲をこの胸にかかえて、生き延びる道を探そう。

野鳥観察者にとって一般的にワシタカ類は人気のある鳥です。食物連鎖の頂点に立つ彼らは個体数が少ない上に結構慎重で姿を見る機会は多くありません。その希少性に加え他の命を奪って喰うという罪を真正面から自分の身に引き受けている点に人気の理由があるように思います。その罪は人間にとっての罪であり彼らにとっては罪でもなんでもないのですが。狩を披露したり食っている最中だったりするとさらに喜ばれます。このことは人間が食うことの罪をごまかしていることに後ろめたさを感じていることの表れであり、このような意識がある限り人間欲の克服に望みがあると考えられます。

余談ですが野鳥観察者にはカワセミ類も人気があります。これらは主に魚を食べる鳥ですが、人気の理由は羽色の美しさにあると思われます。カワセミ類は南方系の鳥で東南アジアにはさらに美しい種が何種もいますが、仏教国では肉食の鳥として嫌われているそうです。そういえば、丸呑みにする獲物を飲み込みやすくするために枝に叩きつける様子が残酷です。このことから考えると、日本は仏教国というよりもやはり神道の国でしょう。神道ではもともと八百万人の神様がいるのですから、お釈迦様にしろイエス・キリストにしろ一人二人増えたってどうってことありません。葬式は仏教で、三回忌は儒教で、クリスマスを祝い、初詣に出かけます。十二月二十五日の商店街は裏でこっそり踏み絵が行われたかのように模様替えします。

人間欲の克服には現在人間関係に向かっている人間欲をその本来の対象である自然との関係に引き戻すことが、まず必要でしょう。人間欲の引き起こすさまざまな弊害は、自然との関係により満たさなければならないはずの人間欲が、自然の中に生きている実感の乏しくなった社会の中で人間関係に向かっていることにより生じているのではないでしょうか。人間関係により人間欲を満たそうとする行為は、のどが渇いたときに強い酒を飲むようなもので、うまいが喉の渇きは癒されず、更に飲むこととなり、遂には酔っ払ってぶっ倒れるでしょう。人間欲に限りがなくなり、破れた水がめに水を溜める様に、満たしても満たしても満足は得られず破局に至るしかないのです。

人間は人間が他の生物より優れていると信じており、同時にそれが嘘であると気づいています。その矛盾が人間欲を生んだのですが、その嘘を本当のこととすることはできないでしょうか。自然界の均衡は互いに制約することによってしか成り立たず、人間の出現により揺らいだ均衡を修復することができるのは人間だけです。人間は地球にとって癌細胞だという説とは裏腹に、人間だけが自分で自分に制約を与えることができる種であり、制約が除かれれば癌細胞のように増殖するだろう人間以外のすべての生物に、制約を与えることができるのもまた、現在では人間だけなのです。人間が他の生物より優れているということを本当のこととすることは可能なことなのではないでしょうか。

かつて地球に君臨した恐竜、その絶滅の原因の一つとして小惑星の地球への衝突が考えられていますが、小惑星の衝突はこれからも起こりうることであり、それは地球上の生物全体に甚大な被害を与えるでしょう。小惑星の衝突をあらかじめ予測し、それを回避する可能性があるのは人間だけです。

世界で最も多く読まれている書物、聖書の冒頭には、世界が神により人間のために食い物として創られたと書いてあります。たいていの人は冒頭部分しか読みませんから、これが聖書のもっとも重要な内容であり、これ以降は歴史物語です。もちろん歴史物語も面白くてためになるもので、教訓、人生の真実、生きるべき道その他、その気になれば道端の石ころからでも何からでも引き出せるものが容易に引き出せるありがたいものです。日本人には奇異に感じられますが、いまだに進化論に根づよい反感があるのは、進化論が神を否定するからではなく、世界が人間の食い物だということを否定し、人間から食い物を奪うからです。世界が人間の食い物として創られたということは明らかに嘘ですが、その嘘により生まれた人間欲が育んだ文明の発展が、それを本当のことにしてくれるのではないでしょうか。朝顔のつるはなぜ伸びるのか。おたまじゃくしが蛙になるのはなぜか。経済成長の終わった共産主義社会で人間は何をすればいいのか。満足した一日を終えた後にもやって来る明日は何なのか。明日という日は人間にとって、今日ついた嘘を本当にすることができるかもしれない日として意味があるのです。

あなたの命を私にください。この私の命が、あと数日生き永らえるために、あなたの命を私にください。これより私の命は、私一人のものではなく、あなたの命と、あなたの命を支えるために失われた多くの命と、それらの命を支えた水と土と光と、この星のすべてであり、この星が夢見てそれから失われたすべての望みが今私の望みであると誓います。時が移り、いつか、私の命があなたの命の糧となる日には、私の命をあなたに与えます。だから今、あなたの命を私にください。私の命はそれに値するでしょうか。してもしなくても、あなたの命を私にください。

トマトが夢を見ました。看護師になって苦しむ人を救いたいと。だけどトマトはその夢をあきらめました。だってトマトにはナースコールで駆けていく足がないから、患者さんの背中をさする手がないから、お医者さんに報告する声がないから。リコピンだったら誰にも負けないのに。そうだ、私は看護師を目指す人間の子供に食べられて、人間の体の一部となって夢をかなえよう。そうしてトマトは食卓にのったのです。DHAだけでは夢をかなえられないと知ったイワシと並んで。

人間が自然環境に対して行っていることは、先に見たように何かを取ってくることと何かを捨てていくことだけです。その他のことはどんなに素晴らしいこともつまらないことも人間内だけのことです。自然の中に生きているということを自覚し、何を取り何を捨てるかということを重要視し、それについて考えることにより、他の生物にとって人間が本当に優れている生物となる道が開けるでしょう。そしてこれは指導者の命令により可能となることではなく、一人一人の人間の意識の持ち方にかかわることであり、一人一人の人間の毎日の生活にかかわることです。資本主義社会において多くの人は多くの場合に消費者として行動しますが、消費者にとっての自然とのかかわりは週末の森林浴ではなく、買い物とごみ捨て、とりわけごみ捨てです。地球の温暖化もオゾン層の破壊もごみが原因です。買い物とごみ捨ては共にいわゆる家事であり女性がするべきことだとする意識が根強くありますが、ごみ捨てもできないようでは一人前ではないという時代がまもなく来るでしょう。それが消費者にとって自然と繋がるたった一本の細い糸なのですから。資本主義は人間と自然をこんなにも隔ててしまいました。自然から隔てられた人間欲は本来の行き場を失い人間欲の張り付いた物体、商品へと向かい、さらに資本主義を発展させるでしょうが、発展のあとは崩壊です。

人間と自然とのかかわりを考えるときに興味深いものにペットがいます。ペットは人間と違って人間の愛情を裏切りません。それはペットが人間の愛情を裏切ったら生きていけない境遇にあらかじめ貶められているからであり、人間が人間の愛情を裏切るのは人間がそのような境遇に甘んじていることができないからなのですが、ペットをかわいがる人にはペットをそのような境遇に貶めていることについて罪の意識はないようです。おおっぴらにかわいがり、自慢さえします。そして本当にペットはかわいいです。ペットは人間欲の餌食になっているのです。それは良いこととは思われませんが、人間を人間欲の餌食にするよりはずっと賢明で安全な方法です。しかし、恥ずかしいことをしているという意識くらいは持ってほしい、せめて照れるくらいはしてほしいです。

花屋の店先に並ぶ色とりどりの様々な形をした切花たち、数日のうちには実を結ぶことなくしおれてごみになることがつぼみのうちから運命付けられている彼らを、買って部屋に飾ろうという人々はなぜそんなに彼らを憎んでいるのでしょう。とりわけ品種改良によりおしべを花びらに変化させられた八重咲きの花は、切られる前から未来が絶たれています。花粉を運んでくれる昆虫を誘う美しい装いが、獲物を求めてうろつく人間欲の目に留まったことが、彼らの不幸の始まりでした。ああ、それともそれは幸運でしょうか。人間欲の眼鏡にかなえば人間同様世界中に分布を拡げられます。

植物にしろ動物にしろこれからの地球で生き延びていくのに必要なのは、気候の変化に適応する能力や旺盛な繁殖力ではなく、人間欲に媚を売ることです。それに成功すれば快適な環境も日々の食い物もお嫁さんもお婿さんも、何の苦労もなく、いやでも手に入ります。

末っ子はかわいいです。老いて産んだ子ならなおさら。人間は地球の末っ子です。母なる地球は末っ子人間を溺愛し、オゾン層で守りヴァンアレン帯で守り、化石燃料を森林を与えました。母なる地球は末っ子人間を盲愛し、食い物としておもちゃとして、マンモスをドードーを兄を姉を血祭りに上げました。誰が笑えるでしょうか、この母の盲愛を。誰が非難できるでしょうか、この母の溺愛を。大人になろうとする末っ子を前に母は愛撫の手を休め、煮えたぎるマグマの腹で考えています。

「この子は私を愛するかしら、親孝行をするのかしら。それとも憎むのかしら、無理心中を迫るのかしら。そうされても仕方のない愛し方だった。だけどこの子は幼くてまだ知らない、何があっても私は生き残ると。この子の心中の道連れになるのは、子の子にとっての私だけ。自然破壊だとか自然保護だとか、どちらにせよそんな力が自分にあると思っているなんて。ばかばかしい。でもそこがかわいいの。自分にとっての自然環境を守るだけのことを、地球を守ることだと思い込むという、幼児に特有の自己絶対性を振りかざして。もうすぐ大人になるはずのこの子の、大人になったときが、ああ、楽しみ」

小説人間欲目次 第一部第八章 人間欲の誕生