第一部 人間欲

第八章 人間欲の誕生

人間欲は人間だけにあるもの。お猿にはないもの。それならば、お猿さんであった人間の祖先が、人間になったとき、それは生まれたはずです。お猿が人間になったとき、一体何が起きたのでしょうか。それを知るには、タイムマシンに乗って、時間をさかのぼる必要はありません。現在の人間を見ればいいのです。人間欲にまみれた人間を。手がかりとして、人間欲と同様、人間だけにあるものである「言葉」について考えてみましょう。言葉は仮想現実の材料であり、人間欲の多くが言葉によって満たされている以上、人間欲と言葉には並々ならぬ関係があるはずです。

人間の言葉の特徴は、その量的な膨大さもさることながら、嘘をつけることであり、民族等により異なることです。嘘つきの罰として、閻魔様に舌を抜かれるのは、嘘が、言葉によってしかつけないことをよく表しています。本当のことならば、言葉を使わなくても伝えられます。人間以外の生物は、すべてそうしているのです。森林にすむ小鳥の多くはたくさんの種類が混群を作り行動しますが、危険が迫った際の彼らの警戒の声はどの種も似通っていて他の種にも通じるようになっています。それを思えば、人間の言葉は、まず、嘘をつくために作られたに違いありません。また、民族等により異なることを思えば、仲間内では通じるが、それ以外では通じないものとして作られたに違いありません。お経は千年以上の長い間ほとんど日本語に訳されることなく有難がられています。訳してはならないもので、意味不明だから有難いのです。ファッション雑誌、お役所の文書等にあふれるカタカナ言葉、業界用語や若者言葉。「年寄りにも分かる言葉を使ってくだされ。ケアプランとはなんですか? 西洋のお城ですか」これらは、一般化され広く通用するようになると新しいものに取って代わられ、後から後から生まれてきますが、このような現象は、通じることと同様に通じないことが、言葉にとっての重要な機能である点に着目しなければ理解できません。言葉には、コミュニケーションの手段としての機能と同様に重要な機能として、仲間と仲間以外の者とを区別する機能があるのです。お猿さんだった人間の祖先は、仲間内だけに通じる嘘をつかなければ生き延びていけない状況に追い込まれたのです。そして言葉が作られました。それはどのような状況でしょうか。

現在の進化論では「生存に有利」が大手を振っています。白鷺、白鳥など比較的体の大きな鳥に白いものが多く見られますが、群れで暮らす鳥にとって目立つことが生存に有利だから、と説明されることが普通です。しかし、説明にも何にもなっていません。白鷺や白鳥よりも群居性が強く白くない鳥は鶴を始めいくらでもいます。羽毛が白く見えるのは色がついていないからです。それならば、生きるのに精一杯で色にまで手が回らなかったんだろうと考えるのが自然じゃないでしょうか。体の部分部分の羽根にそれぞれ決った色をつけることはたいへんな手間です。保護色として、あるいは異性をひきつけるお洒落としてありとあらゆる色彩の鳥がいますが、その手間が省けたらなあ、雛に魚の一匹も余分にとってやれるのに、と思う鳥がいたって不思議はありません。家禽化され人間に守られることにより色をつける必要のなくなったアヒルもガチョウも白いです。TV番組で鹿の牧場の映像を見たことがあるのですが、白い鹿が数頭混じっていました。家畜化されると白くなるという事実を、美白を目指す人は頭の片隅にとどめておくと何か役に立つかもしれませんよ。「生存に有利」は、まったく資本主義的な考えであって、下部構造である経済が上部構造である思想、科学等を支配するという、唯物論の見本のような事例です。資本主義と共に姿を消すでしょう。進化論は資本主義と同時代に生まれ、資本主義の申し子のような学問です。自然淘汰はもともと経済学の用語だったそうですが、この自然淘汰を始め、突然変異、適者生存、弱肉強食等の言葉は、生物の進化を説明するのには腑に落ちませんが、レコード、カセットテープ、L−カセット、CD、MD、IPODの変遷を説明するのにはうってつけです。数十億年に亘る生物の進化が、たかが人間の一つの時代に過ぎない資本主義社会の価値観である損得により左右されてきたとは思えません。進化とは、絶滅を前にした必死の変化が成功した場合を後の世に並べたものでしょう。言葉は「生存に有利」だから作られたのではなく、言葉を作らざるを得ない状況に追い込まれたから作られたのだと思います。

ウミネコは世界の中で日本海周辺だけに生息する中型のカモメです。その特徴はくちばしの先の黒色と尾羽根の黒帯ですが、これは共に中型から大型のカモメの若鳥のすべてに見られる特徴です。つまりウミネコは若鳥の特徴を残したまま大人になっているわけですが、このようなことを幼形成熟といいます。ダチョウが、でっかいヒヨコの首と足を無理やり引き伸ばしたような格好をしていて空を飛べないのも幼形成熟です。これは言い換えれば発育の遅滞ですが、動物においては食物の不足により引き起こされます。ウミネコの幼形成熟の原因は、ウミネコの生息地の中心である日本海が、かつて死の海だったことにあると思われます。ウミネコは、ほぼ同じ大きさのカモメに比べくちばしが大きく、大きなくちばしを動かす筋肉がついた顔がごつく、見るからに食い意地が張っていそうです。腹が減っていたんだろうなあ。

地球は燃える火の玉です。岩石が衝突しあってできた地球は、その衝突のエネルギーが熱エネルギーに変換され真っ赤に燃え盛り、その熱と重力に由来する圧力により始まった核分裂反応がさらに熱を発し、ほんのごく表面が冷え固まっているだけです。その熱は出口を求め、大陸により行く手を阻まれた熱が出口を求め、大陸を引き裂きます。お猿だった人間の祖先の住む森がめりめりと引き裂かれ、アフリカに大地溝帯が出来上がりました。深く刻まれた谷は気候を激変させ、人間の祖先に果実その他豊富な食料を提供してくれた森は消滅し、人間の祖先は野原に放り出されました。これから、何を食べて生きていったらいいのでしょう。チーターのように速く走る能力も持たず、イルカのように自由に泳ぐ能力も持たず、牛のように食物繊維を消化する能力も持たず、土を耕す技術も狩の道具を作る技術もまだ持たなかっただろう人間の祖先に、一体どんな食物が手に入れられるというのでしょうか。飢餓による絶滅という乗り越えがたい壁が人間の祖先の前に立ちふさがりました。

人間ほど何でも食べる動物はいません。手に入るものは何でも食べてみたでしょう。

「ホヤを初めて食べた奴は偉いなあ」

ていばんの親父ギャグですが、偉いわけでもなんでもなく、とにかく腹が減っていたのです。毒を喰って死ぬか、腹を空かせて死ぬか、さあ、どっちを選ぶ? 空腹がお猿を人間にしました。

木から降りた人間の祖先は、長い間木からぶら下がっていたために背骨が伸びて、二本足で歩かざるを得なくなっていました。人間の特徴の一つである直立二足歩行は、生存に有利だからと獲得されたものではなく、他の理由によりそうするしかしょうがなかったというものです。始めはぎこちないものだったでしょう。満足に動き回れない人間の祖先が手に入れることができた食物は何でしょう。足の遅いものは力が強く、力の弱いものは逃げ足が速く、容易につかまるものは腹の足しになりません。だってそうじゃなきゃ人間の祖先につかまる前に絶滅しているでしょう。それが生物の掟ですが、そのような掟を持った生物世界の中に、人間の足で追いつけるくらいの逃げ足の速さで、人間の腕力で打ち負かすことができるくらいの力の強さで、つかまえる労力に見合うだけの分量があり、人間に必要な栄養素のすべてが含まれている、ああ、そんなものがあったのでしょうか。

たった一つありました。知恵の木の実です。イヴと呼ばれることとなる女が蛇から勧められたという知恵の木の実です。神様により人間のために食い物として創られた世界の中に、どうして食べてはいけないものがあったのでしょうか。私はこの話を作り話だと思いますが、作り話を作らざるを得なかった人間の思いの中に、どうしようもない真実が潜んでいると思います。それは、食べてはならないものを食べてしまったという思いです。どうしてそれを食べてしまったのでしょう。ほかに食べるものがなかったからです。お猿さんは、飢餓により絶滅するか、それを食べるか、どちらかを選ばざるを得ない状況に追い込まれたのです。それを食べて、お猿は人間になりました。その事実をごまかすために嘘をつき、嘘をつくために言葉を発明し、嘘を忘れるために人間欲が生まれ、人間欲が文明を作りました。そしてある日恐ろしい事実が判明します。言葉は、嘘だけでなく、真実を伝えることもできるのです。言葉は、仲間内だけではなく、それ以外の者にも通じるのです。嘘を共有しない者にも言葉が通じたら、嘘が嘘だとばれてしまうじゃありませんか。人間の作った暗号で、人間に解けないものはありません。さらに言葉は、文字の発明により時空を越えました。恒温動物の出現によりDNAからはみ出した情報は翼を持つに至ったのです。そして、嘘を暴くことができるのは、嘘をつくことのできる言葉だけです。

さあ、それは何だったのでしょう。私の家の近所のくるくる寿司が焼き肉屋に替わりました。さあ、それは何だったのでしょう。選挙に行こうと歩いていたら、見知らぬ老人が話しかけてきて、町内会長の噂などの後、喰ったと言いました。

「うまいんですか」

「うまいとか、そういうことじゃないんだが。しょうがないよ。ほかに喰うもんないんだから」

さあ、それは何だったのでしょう。それは人間の好きなもので、人間のいるところならどこでも、見渡す限りに広がる氷原に不時着した旅客機の中でも手に入るもの。さあ、それは何だったのでしょう。

人間です。

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